結果に対する運の割合は約3割。実力7割対運3割。サッカーの魅力を語るとき、この関係を無視することはできない。何とも言えない絶妙な関係だ。中には恐ろしいことに、敗れた理由が、本当に不運の一言に尽きる試合がある。

強者と弱者。大国と小国。大きなクラブと小さなクラブ。それはどちらにとって喜ばしい特性かと言えば後者。つまり、サッカーは、弱者、小国、小さなクラブに有利な設定になっている。番狂わせが多いスポーツである理由でもある。

弱者有利。サッカーが世界のナンバーワンスポーツに君臨する理由だと思う。

チャンスは誰にでもある。スポーツの世界によく登場する言葉だ。「可能性はある」もそうだが、これは当たり前の話。知りたいのは、それがどの程度なのかという点だ。変に期待を持たせる玉虫色の表現になるが、少なくともサッカーは「可能性はある」は「可能性が高い」に近い。全員にそれなりのチャンスがある。他の競技以上に。弱者のモチベーションは自ずと上がる。

人気の低いスポーツは、この点でサッカーに大きく劣っている。強者しか楽しめない閉鎖性が競技の普及発展にブレーキを踏んでいる。徹底検証したわけではないけれど、そう言うことなのだと思う。

番狂わせにはニュース性がある。そして番狂わせの主役は紛れもなく弱者だ。弱者の名前はたちどころに広がる。一瞬かもしれないが、弱者は鼻高々でいることができる。痛快な気分に酔いしれることができる。

一方、勝って当たり前の強者には、そうした意味での喜びがない。痛快な気分を味わうことはできない。僕は、これまでに番狂わせの現場に何度となく立ち会ってきたが、強者がガックリする姿は半端ではなく哀れだ。そして繰り返すが、その可能性は悲しいかな、おそらくどの競技よりも高い。

チャンピオンズリーグで連覇したチームは、チャンピオンズカップ時代のミラン(88〜90シーズン)以来、20年以上も現れていないが、その事実と、弱者が有利にできている(強者が不利にできている)サッカーの特性とは、大きな関係があると思う。

もっとも、強者、弱者は、世間が決めることだ。誰にも分かる関係、例えばサッカー偏差値70のチームと55のチームが対戦すれば、その数字を示されなくても強弱関係はハッキリするが、55対53の場合では、そうはいかない。一般のファンは見抜くことができない。メディアの力が不可欠になる。ブックメーカー各社のオッズをのぞいてみたくなる瞬間でもある。

そこで初めて、両者が55対53の関係にあることが明らかになるわけだが、運が3割を占めるサッカーにあって、この2ポイント差は無に等しい。やってみなければ分からない関係にある。だが一方で、この瞬間、強者と弱者は鮮明に棲み分けされる。55のチームは、急に居心地が悪くなるわけだ。番狂わせの主役にはなれないし、勝利を収めても順当勝ちだ。痛快さを味わうことはできない。サッカーそのものに落とし込めば、守勢になりやすい。受けて立ちやすい。変に攻撃的に出て、墓穴を掘りたくないと考える、はず。

逆に、55のチームが強者になったことを喜んでしまうと、いっそう危なくなる。それこそが番狂わせの元だ。

53のチームは、なにより「強者」の立ち位置とその感情を知るべきである。チャンスと思うべきなのだ。「弱者」扱いされたことをむしろ喜ぶべき。それこそがサッカー的なメンタリティだと僕は思う。

相手をリスペクトしなさいとは、サッカー界で最近よく用いられる台詞だが、それは弱者と言うより、強者のためにある言葉だと思う。サッカーは弱者のためにあるスポーツ。基本的に弱者有利にできていることを忘れると、2ポイント差、いや5ポイント差ぐらいはすぐにひっくり返されてしまう。