美馬寛子

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 日の丸を背負って戦うのは、なにもアスリートだけではない。北京五輪が盛り上がりを見せる8月11日、2009ミス・ユニバース・ジャパンオーディションの応募受け付けがスタートした。ミス・ユニバースは、世界中の20代の女性に注目される“美のオリンピック”。世界大会には、毎年80カ国を超える国々から代表が集まる。歴代の日本代表には、女優、モデルなどが名を連ねており、近年では、06年の知花くらら(2位)、07年の森理世(優勝)の活躍が記憶に新しい。

 2008ミス・ユニバース日本代表に輝いた美馬寛子は、知花、森の後に世界に挑み、トップ15という成績を収めた。中学1年生のときにギラン・バレー症候群という難病にかかるも、その後、始めた陸上走り高跳びで全国大会に7度出場するまで回復。現在、日本大学文理学部体育学科に通う彼女が、ボーイッシュなハイジャンパーから、エレガントなミス・ジャパンに変貌するまでの道のりや、世界大会での生活、女子大生としての素顔について語ってくれた。livedoor ニュースでは、美馬寛子の独占インタビューを四週連続でお届けする。

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――ミス・ユニバースに応募したキッカケは?
美馬寛子(以降、美馬):3年前に父が事故で他界して、そのときに、人生一度きりしかないから、人間いつ人生が終わるか分からないというのを目の当たりにして、悔いの無い人生を送りたいと思うようになりました。2006年に知花くららさんが世界で2位になったときのニュースを見て、ミス・ユニバースというものを知って、2007年に森理世さんが優勝なさったときに、同年代の方が世界で認められる舞台があるんだということに衝撃を受けて、興味を持つようになりました。

――それまで、モデルのお仕事の経験は?
美馬:普通の女子大生でした。ファッションに興味が無かったし、体育学科なので、毎日ノーメイクで、ジャージとかスウェットで学校に通っていました。陸上競技部なんですけど、学校が終わったら、グラウンドに行って練習するっていう感じで。

――大学の陸上部っていうことは、かなり本格的な練習をしていたんじゃないですか?
美馬:一緒に練習していただいたOBさんは北京五輪に出る方もいらっしゃいますし、私のコーチは日本記録を持ってる方だし、かなり本格的ですね。

――部活のメンバーなどからモデルの仕事を勧めらることはありませんでしたか?
美馬:高校ぐらいから、身長が高いし、やったらっていう声はありました。興味が無かった訳じゃないんですけど、私の中で優先順位をつけたら、学業と陸上が上でした。田舎(徳島県)の出身なんですけど、モデルの世界を見たときに、ほんとに雲の上の世界だし、成功しなきゃそれを職業に出来ない。それまでの期間がどれだけ掛かるのか分からないっていうので、なかなか踏み込めませんでした。

――その後、徳島から大学入学のために上京されて、街でスカウトなんかもあったんじゃないですか?
美馬:ありました。でも、やっぱり優先順位が学業と陸上だったので。別にスカウトで事務所に入ろうとは思わなかったんです。でも、街で歩いていて目立ったということは、光栄なことだと思っています。

――小さい頃はどんな子供でした?
美馬:ほんとにヤンチャで、男の子勝りな女の子で、家の中でおままごととかじゃなくて、友達の男の子と、外でキックベースをしたり、ドッヂボールをしたりしていました。

――ご兄弟は?
美馬:姉がいます。いとこが、一番上は男の人なんですけど、後はずっと女の人で、父も私が生まれるときに、きっと男の子がよかったと思うんですよ。なので、育てるときに、男の子のようにラジコンとか、釣りとか、私から誘って釣具屋さんに連れて行ってもらったり、ペットショップでハツカネズミや亀を飼ってもらったり…。

――普通の女の子の趣味とは、ちょっと違うみたいですね。
美馬:クリスマスに枕元にサンタさんからのプレゼントで、姉の枕元には、女の子の本があったんですけど、私のところには昆虫図鑑が積み重なっていて(笑)。今考えると父なんですけど、私はそういうものを喜んでいたんですね。次の年は、枕元には何も無かったんですが、机の上に水槽あって、その中でカエルが5匹ぐらい泳いでいました(笑)。

――その後、陸上競技を始められるんですよね。
美馬:はい。その前にずっとバスケットボールをしていました。中学校でもバスケ部に所属していたんですけど、中学1年生のときに、ギラン・バレー症候群っていう病気にかかってしまって。脊髄にウイルスが入って、その病気が起こるんですけど、私の場合は、右脚の運動障害と右手の感覚麻痺になりました。バスケットはずっと走り続ける競技なので、体力的に難しいという話になったときに、陸上の顧問の先生から、身長が高いし、走り高跳びをやってみたらというお誘いを頂きました。父が陸上が好きだったっていうのもあるんですけど。高跳びって、きれいな女性がする競技っていうイメージがあって、空中でパフォーマンスするのが女性らしいなと思っていましたので、その話を頂いたときに違和感無く、挑戦してみようという感じでした。

――ギラン・バレー症候群とはどういう病気なんですか?
美馬:私の場合は、脊髄に風邪のウイルスが入って、バタンって倒れたんですね。最初は熱が微熱程度で、ちょっとだるいくらいの症状だったので、そのまま家にいたら、貧血みたいに倒れて、手と脚の感覚がおかしくなりました。倒れたときに脳を打ったのかなと思って、すぐに脳外科に行って調べてもらったんですが、そうではなかった。それで、小児科に行って、脊髄の検査をしたら、ギラン・バレー症候群って言われました。別名で「グローブ・アンド・ストッキング」と言われているそうです。グローブをしているような手の感覚、ストッキングをはいているような脚の感覚で。

特効薬がない病気だそうで、ひどい場合はそのまま歩けなくなるっていうお話を母が聞いて、入院することになりました。でも、私は入院したときが一番ひどくて、その後は感覚が戻っていきました。

――再発の可能性はあるんですか?
美馬:あるそうです。でも、子供の頃に発症して、完治した場合の再発は少ないそうです。最初の頃はちょっと体調が悪くなったら、すぐに母は「握力は? 脚の感覚は?」とか聞いていたんですが、再発はほぼ無いっていうことで。でも、体調が悪くなったりしたら、ちょっと怖いっていうか。

――病がキッカケで始められた走り高跳びですが、全国大会に何度も出場するほど才能が開花したんですよね。
美馬:陸上を始めたのが中学2年生の秋なんですけど、なぜか、3年生の時には全国大会に出られて、そのまま順調に記録が伸びていきました。徳島県はあまりレベルが高くないので、それで行けたというのもあるんですけど。いいコーチや監督にめぐり合えたから、ちゃんと成績が出たんだと思います。

――その当時、身長は?
美馬:167、8とか。小学6年生の時に163ぐらいあって。生まれたときの身長が、男の子の平均身長より大きかったので、最初から大きかったんです。

――いま173ですよね。まだ、伸びてます?
美馬:止まったと思います。でも、大学1年生と2年生のときの健康診断では伸びていました。

――どこまで伸びるんですかね(笑)。
美馬:2年から3年生のときもちょっと伸びてました。でも、たぶん止まったと思いますよ(笑)。

[次週につづく]

<次週予告>
 次週8月20日(水)は、美馬寛子インタビュー第2回「美馬寛子が他の候補者に勝ったワケ」を公開します。なぜミス・ジャパンになることが出来たのか。他の候補者との差とは何だったのか? 今だから語る強さの理由とは?

「ミス・ユニバース・ジャパン」公式携帯サイト - 2009年オーディションの応募も受け付け中
 知花くらら、森理世を育て上げたプロデューサー、イネス・リグロンが総合監修。話題の本「世界一の美女の創り方」をミス・ユニバース・ジャパン公式携帯サイトで展開中だ。イネスと美馬寛子のブログや、世界一の美女になるための「魔法の言葉」を配信するほか、イネス本人への質問も受け付けている。2009ミス・ユニバース・ジャパンオーディションの応募受け付けもスタート。次に世界で輝くのは、あなたかも知れない。