中日に移籍した松坂大輔が復活の兆しを見せている。その喜びとともに筆者が独自でつけた「記憶に残る復活投手」ランキング。前回の記事で10位から6位までを紹介したが、さらに上位のベスト5に入ったのは往年の名投手ばかり。プロ野球ファンたちの記憶が呼び覚まされるであろうランキングを、1位まで一気にどうぞ!


日本球界復帰後の初勝利が待たれる松坂大輔

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5位 盛田幸妃(元大洋、近鉄) 

【ケガ(病気)の内容:脳腫瘍】
【復帰後の主な成績:4年40登板、2勝0敗】
【獲得タイトル:2001年・カムバック賞】

難病から復活した「奇跡のリリーバー」

 ケガではなく重篤な病気での戦線離脱から復活したレアなケースとして、盛田幸妃を覚えているファンは多いだろう。1987年に大洋からドラフト1位で指名されると、入団4年目から主にリリーフとして登板し、1992年には佐々木主浩との”ダブルストッパー”として活躍。最優秀防御率のタイトルを獲得した。

 しかし、トレードで近鉄に移った1998年のシーズン途中から右足が震えるようになり、脳のMRI検査で直径5センチほどの腫瘍が発見される。手術で無事に摘出できたものの、しばらく右手と右足の自由がきかない後遺症に苦しんだ。

 精神的に不安定な時期もあったが、復帰に向けて強い気持ちでリハビリに励み、1999年4月にはチームに合流。同年10月のシーズン最終戦で、392日ぶりとなる一軍復帰登板を果たし、ファンに感動を届けた。

 さらに、ただ復帰しただけではなく2001年には中継ぎで34試合に登板し、近鉄の12年ぶりとなるリーグ優勝に貢献する。オールスターゲームでは中継ぎ投手部門でファン投票1位に選ばれ、シーズン終了後にカムバック賞を受賞。2017年のシーズン終了時点で、パ・リーグで同賞を受賞した最後の選手となっている。

 翌2002年に現役を引退してからは解説者として活動していたが、2005年に脳腫瘍が再発。一度は除去手術が成功するも、その後も再発と転移を繰り返し、2015年に転移性悪性腺腫のため45歳の若さでこの世を去った。

4位 遠藤一彦(元大洋)

【ケガの内容:右足アキレス腱の断裂】
【復帰後の主な成績:5年119登板、18勝30敗28セーブ】
【獲得タイトル:1990年・カムバック賞】

すべてのファンが息をのんだ走塁中のアキレス腱断裂

 投手のケガは投げすぎによるものばかりとは限らない。

 1983年に沢村賞を受賞するなど、1980年代に速球とフォークボールを駆使するピッチングで勝利を重ね、「巨人キラー」の異名をとった遠藤一彦。1987年10月3日の巨人戦も、1-0とリードして5回表の大洋の攻撃を迎えた。

 ところが、遠藤が走者として二塁から三塁へ向かう途中に、右足アキレス腱を断裂する大ケガを負ってしまう。片足ケンケンで崩れるように三塁ベースへ飛び込み、激痛に悶える遠藤の姿に、後楽園球場の大観衆、全国中継を見ていた視聴者の誰もが言葉を失った。

 アキレス腱を手術した遠藤は、2カ月に及ぶ入院生活と、懸命なリハビリを経て翌1988年に復帰した。先発としては、その年に5勝12敗、1989年も2勝8敗と低迷したが、1990年に「抑えの切り札」に抜擢されて復活。21セーブを挙げてカムバック賞を受賞している。

 1992年の現役引退試合もやはり巨人戦で、2回を無失点で有終の美を飾った。その試合は「横浜大洋ホエールズ」としての最後の試合でもあり、横浜スタジアムに詰めかけた満員のファンが別れを惜しんだ。
 
 試合中のプレーで大ケガを負った投手としては桑田真澄(元巨人・パイレーツ)も印象深い。1995年6月の阪神戦で、バントの小フライを捕ろうとダイビングキャッチを試みた際に、右ヒジを地面に強打。検査の結果、側副靭帯が断裂していることが判明したためトミー・ジョン手術を受けた。

 リハビリを経て復帰したのは2年後の1997年。遠藤と同じく、勝利を目指した全力プレーで負ったケガからの復活が大きな感動を呼んだ。

3位 伊藤智仁(元ヤクルト)

【ケガの内容:右ヒジ靭帯の損傷、右肩痛】
【復帰後の主な成績:6年113登板、30勝25敗22セーブ】
【獲得タイトル:1997年・カムバック賞】

伝説になった悲劇の投手

 新人時代の無双ぶりと引退時の悲壮感によるギャップで、伝説的な「悲劇の魔球スライダー右腕」として語り継がれているのが伊藤智仁だ。

 プロ入り1年目となる1993年の伊藤は圧倒的だった。150キロ級の速球と、プロの右打者が思わずのけぞったボールが「ストライク!」とコールされるほど大きく、速く曲がる高速スライダーで、オールスター前までに7勝を挙げた。

 だが、1試合で200球近く投げることもあった伊藤は、右ヒジ靭帯の損傷により戦線を離脱。前半戦の活躍だけで新人王は獲得したものの、翌1994年のキャンプで今度は右肩を痛めて手術を余儀なくされた。

 1996年に一軍に復帰し、リリーフとしてカムバック賞を受賞したのは1997年のこと。その間、ヤクルトファンだけでなく野球ファンの誰もが、伊藤が快投する姿を心待ちにしていた。

 1998年からは先発に復帰し、2000年まで3年間はローテーションを維持。しかし右ヒジや右肩の痛みが完全に癒えることはなく、一軍での登板は2001年が最後になった。投げた勢いで亜脱臼してしまうほど関節が緩かった右肩は、通算で3度の手術が施され、血行障害の手術もしたが完全復活には至らなかった。

 実質的に最後の登板となった、2003年のイースタン・リーグの試合で投げたストレートの球速は109キロ。球団から何度も引退勧告を受けながら、年俸の大幅減額を受け入れてまでつらぬいた現役への挑戦は、ここで終わりを遂げた。

2位 荒木大輔(元ヤクルト、横浜)

【ケガの内容:右ヒジ痛】
【復帰後の主な成績:4年49登板、11勝12敗2セーブ】

苦難のリハビリを経て4年ぶりの復活

 手術が成功したにもかかわらず、その後のリハビリで苦労した投手もいる。早稲田実業時代に甲子園のアイドルとして騒がれ、松坂大輔の名前の由来にもなった荒木大輔がそうだ。

 プロ入り後、順調に勝ち星を積み重ねて1987年には2ケタ勝利を挙げた荒木だったが、1988年のシーズン中に右ヒジ痛に襲われ、同年8月にトミー・ジョン手術を受けた。

 ところが翌年、リハビリを急いだために移植した腱を切ってしまい、再手術を余儀なくされる。さらに、走り込みのしすぎで椎間板ヘルニアを発症するなど、連続して不運に見舞われた。いつまで経っても復帰のメドが立たず、多くのヤクルトファンが「不憫(ふびん)だ」と同情の声を上げるほどだった。

 それでも苦境に屈しなかった荒木は、約4年ぶりに奇跡の復活を遂げる。

 野村克也監督率いるヤクルトが14年ぶりのリーグ優勝を争っていた1992年9月、ついに一軍に昇格した荒木は、リリーフとして1541日ぶりに神宮球場のマウンドに上がる。1点ビハインドの7回2死一塁という状況で、当時の広島の主砲・江藤智をフルカウントから三振に斬ってとると、その後、古田敦也の本塁打でヤクルトが逆転勝利。物語のような復活劇を演じた。

“救世主”荒木の出現により息を吹き返したヤクルトは、その勢いでセ・リーグを制覇。「ID野球」による野村ヤクルトの黄金期は、この年から始まった。

1位 村田兆治(元東京オリオンズ、ロッテ)

【ケガの内容:右ヒジ痛】
【復帰後の主な成績:7年141登板、59勝50敗2セーブ】
【獲得タイトル:1985年・カムバック賞 1989年・最優秀防御率】

日本人投手で初めて手術からの復活を果たしたレジェンド

 復活投手の頂点にふさわしいのは、「手術のパイオニア」としても名高い村田兆治だろう。

 左足を上げたときに全体重を右の軸足に溜め、斧を振り下ろすように投げるダイナミックな「マサカリ投法」から、剛速球と伝家の宝刀・フォークボールを投げ込む。そんな全身全霊の投球で、村田は1970年代に数々のタイトルを獲得した。

 しかし、最多勝を受賞した翌年の1982年、右ヒジに激痛が走り、さまざまな治療法と並行して座禅や滝行も行なったが完治はしなかった。一縷(いちる)の望みを託して1983年にスポーツ医学先進国であるアメリカへ渡り、フランク・ジョーブ博士のもとで左の手首の腱を一部摘出して右ヒジに移植する手術を受ける。このトミー・ジョン手術を受けた日本人選手はロッテの同僚、三井雅晴に次いで2人目だった。

 その大英断は功を奏し、約2年に及ぶリハビリを経て、1984年のシーズン終盤に復活登板を果たした。翌1985年の4月には、1073日ぶりとなる涙の完投勝利を飾るなど、その年に17勝を挙げてカムバック賞を受賞している。

 村田は1989年に通算200勝を達成し、40歳となる1990年まで現役を続けた。通算222勝で引退したが、「手術したら復帰はほぼ不可能」とされていた日本球界の常識を覆し、日本人投手が手術による復活を目指す道筋を作ったという意味においても、球界への貢献度は多大だ。

 現役時代、徹底したリハビリと体のケアに明け暮れた村田は、引退後も体の鍛錬を怠らない。68歳の現在も、往年の「マサカリ投法」のフォームを維持して、120キロを超えるスピードボールを投げ続けている。

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 こうして振り返ると、ひと言で「復活」といっても、その程度やプロセスは千差万別。時代とともに、復帰に向けたパターンも無数に存在している。

 確かなのは、復活登板を果たした後にも多くの困難が待ち受けているということ。完全復活を目指す松坂にとって、この先にあるのは歓喜か、落胆か。

世界を沸かせた投手だけに、再び「自信を確信」に変えて、プロ野球の歴史に新たな復活伝説を築くことを期待したい。

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