2002年3月、生田スタジオの楽屋で。サッカーとの出会いからその嗜好、価値観に至るまで、おもしろおかしく話を聞かせてくれた。(C)SOCCER DIGEST

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 2月21日、ひとりの名優がこの世を去った。名バイプレーヤーとして老若男女を問わず人気を博した大杉漣さん。享年66。その早すぎる突然の訃報に、日本中が悲しみに包まれた。
 
 一度だけ、取材をさせていただいたことがある。いまから16年前、2002年の春先だ。目前に迫った日韓共催ワールドカップを盛り上げようと、さまざまな分野で活躍している文化人・著名人の方に登場を願い、フットボール愛を存分に語ってもらう連載を立ち上げた。高橋陽一先生や日比野克彦さん、内田恭子さんなど自分が話を聞きたい方々をリストアップ。そのなかの俳優代表が、すでにサッカー通として知られていた大杉さんだった。
 
 とはいえそこはかなりの売れっ子。取材申請しても、最初は事務所に断られた。ところが数日経ってから、「サッカーの話だったらいくらでもしますよ!」と言っていただいたらしく、急きょ取材できることになった。ドラマの撮影場所である生田スタジオの楽屋を訪問。煙草をくゆらせながら、テレビや映画で受けた印象そのまんまの大杉さんが、笑顔で迎えてくれた。饒舌で、底抜けに明るく、ユーモアのセンスが抜群。あっという間に大杉ワールドに引き込まれた。
 
 ノンストップでたっぷり1時間近く話を聞かせてもらった。そして、最後の決め撮りの段。用意してきた日本代表ユニホームに着替えてもらえないかとダメ元で尋ねると、「ぜんぜんいいですよ。言ってくれれば自分のを持ってきたのに。ちゃんと10番が入ってるやつを」と言い、ニッコリ笑った。
 
 今回は、週刊サッカーダイジェスト『僕と私のワールドカップ』に掲載された大杉さんのインタビューを、当時のままの一問一答で、みなさんにお届けしたい。16年の歳月が流れたが、当時の大杉さんの言葉は時空を超え、ずしりと心に響いてくる。シンプルで、ピュア。恥ずかしげもなくサッカーはするのも観るのも大好きだと豪語する。清々しい気持ちにさせてくれるのだ。
 
 大杉さん、これからもJリーグ、日本代表、そして日本サッカーを温かく見守ってください。心より、ご冥福をお祈りいたします。
[週刊サッカーダイジェスト・2002年3月20日号にて掲載。以下、加筆・修正]
 
──大杉さんとサッカーの接点はいつごろ生まれたのでしょうか。
 
「メキシコ五輪が1968年で、あの1年前だから、もう35年経ちますよ。僕はテニスをやってたんですけど、兄貴の影響でね、相手をさせられてたんです。で、高校に入ってすぐに五輪だった。高校のサッカー部なんてゴンタクレ(不良)の溜まり場だったけど、五輪があったから少し認知されて、陽の当たり出した頃でね。ああ、のめり込んでいきそうって。
 
 高校を出てから上京して、新宿のゴールデン街に通い出して、また出会いがあった。東京でもサッカーやりたいなと思ってたんですけど、とある店でサッカーチームがあるってことで、入れていただいたんです」
 
──いまもサッカーチームをお持ちですよね。かつおクラブでしたか。
 
「いわしですよ、い・わ・し! 漢字で書いてくださいね、鰯と。これって魚へんに弱いって書くでしょ。呑んでる時に肴で出てきて、『いわしってどういう字だっけ? あ、これっていいじゃない。庶民的じゃん、身近じゃん』と。それまではホワイトドランカーズというチームだったんですよ。まあ“白き呑み助たち”ってとこ。酒好きの集まりって感じでね。緊張感のなさがよく出てるでしょ」
 
──ちなみにポジションは?
 
「センターフォワード」
 
──トップですか!?
 
「いや、センターフォワード(笑)。トップというと最近っぽいし、ホントに前にいるだけという古き良き匂いのする感じで。まあ、そこしかできないんですけどね。どさくさ紛れに点を取るのを得意としています。とにかく動けなくても、ピッチには立ちたい。自分では“不動の10番”と言っています」