『氷 (ちくま文庫 か 67-1)』アンナ・カヴァン 筑摩書房

写真拡大

 滅びゆく世界で主人公がひとりの女性を追いつづけるストーリーは、J・G・バラードの傑作『結晶世界』(創元SF文庫)に似ている。そこに広がる光景が、客観と主観の区分を越えた内宇宙であることも同じ。ただし、結晶世界がその極限において官能的なユートピアとなるのに対し、カヴァンの氷は最初から最後まで冷酷だ。

 氷は海にも山にも妨げられることなく、日一日と地球の曲面をひそやかに這い進んでくる。この氷を止める手だてはどこにもない。非情な秩序のもとに行軍し、その進路にあるすべてを倒壊させ破滅させ跡形もなく消し去っていく。

 終末が迫るなかで、語り手の私はひとりの少女を追いつづける。アルビノの銀白色の髪、やせた身体、繊細な神経、ガラスのように硬くもろい人格。そんな少女に私は夢中になり、かつて結婚しようと思ったことがある。しかし、彼女は突然、私を捨て、別な男性と一緒になった。それはもう過去のことだ。いま異郷から戻った私は、国に着いたとたん彼女のことしか考えられなくなる。

 凍てついた道をたどり、少女が夫と暮らす家を訪問するが、私に対する彼女の態度はよそよそしい。夫との関係もうまくいっていないようだ。やがて夫の元から出奔した少女を追い、私は船に乗ってフィヨルドの国に着く。少女は長官に囲われ《高い館》に住んでいるという。手の届かぬところへ行ってしまったようだが、不思議なことに私はそれほど困難なく長官と面会を取りつける。長官(鷹のような容貌の頑強な男)は私を排除しようとしない。『氷』を通常の恋愛小説と見立てれば長官は私のライバルにあたるが、ふたりのあいだには反目や牽制はなく、むしろ分身のように描かれている。少女にとっては私も長官も自分を傷つける世界の一部であり、だから彼女は私を受け入れようとしない。

 しかし、彼女の内面に入りこんだ描写はなく、私にとっては(そして読者にとっても)少女は謎めいた、追っても追っても遠ざかっていく蜃気楼のような存在だ。その一方、《高い館》を歩きまわる私の意識も曖昧で、実際に体験していることと現実的には知りえない情景とが境目なくつながっている。すべてが妄想かもしれない。あるいは、私はときおり登場人物であることを超越した「視点」になって、少女の過去と現在を眺めているのかもしれない。

 やがてこの国に氷が到着し、それをいち早く察知した長官は少女を連れて国外へ脱出する。私は置き去りにされてしまうが、本国のはからいでヘリコプターに拾われる。その後はまた船に乗って別な小国へ到着。さらに通信設備の建設へと赴くトラックに便乗して辺境地へ向かう。国境の先は紛争がおこなわれている危険地帯だ。灰燼に帰した町に少女がいたならとうに死んでいるだろうし、生きていても別な場所へ去っているはずだ。自分の行動に意味はないと知りながら、私は国境を越える。

 私の行動は衝動的だが、それでもその先に必ず少女はいる。宿命が働いているとしか思えないなりゆき。そして、そのあとを氷が静かに追ってくる。

 世界を閉ざしていく氷と、私からすり抜けていく少女とのあいだには、常識的な意味での因果関係はないが、ひとつの切迫感で結びついている。私は酷薄な世界から少女を守りたいと強く思う。しかし、むしろそんな世界だからこそ、私は少女へ接近できるのかもしれない。すべてを閉ざす氷とひとりの少女、それ以外の状況や要素はほとんどが背景へと退いていく(この小説の登場人物は誰一人として固有名を持たない)。

 印象的なのは氷の両義性だ。少女は幼いころから他者(母親や男)に抑圧され傷つけられてきた。いま世界を覆い尽くしつつある氷は、なによりも純粋な他者だろう。しかしその一方で、すべてのひとに心を閉ざし身を遠ざけようとする少女自身も、氷のようではないか。この作品に描かれる氷の世界が精神風景だとすれば、それはまず少女のものだろう。私の脳裏に浮かぶ少女の姿もしばしば氷の光景のなかにある。

 氷/少女と対極にあるのが、私がかつて南の島で出会ったインドリ(大型のキツネザル)だ。この神秘的な生き物を思い出すと、私は充足感につつまれる。愛情豊かなインドリは官能的な幸福だ。しかし、インドリの温かな世界に背を向けて、私は少女を追うことを選ぶ。それは希望か? 絶望か?

 本書は1985年にサンリオSF文庫で訳出され、2008年に改訳版がバジリコから出た。このちくま文庫版は三度目の刊行にあたる。新しく付されたクリストファー・プリーストの序文が、この小説に踏みいるための格好の道案内となる。

(牧眞司)