蒲島郁夫(熊本県知事)

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■「くまモン」経済効果は1244億円

【塩田潮】熊本県と聞けば、真っ先にPRキャラクターの「くまモン」が浮かびます。2010年の登場で、今や全国区の人気どころか、海外でも話題です。

【蒲島郁夫(熊本県知事)】08年4月に知事になりましたが、3年後に九州新幹線鹿児島ルートが全線開業しました。熊本県にとってはとてもめでたいことですが、当時は全線開業で熊本は素通りされてしまうのではないか、熊本の人たちも福岡に行ってしまうのではないかと悲観的で、熊本が潤うと思う人はあまりいませんでした。関西から人がきて熊本で降りてもらうのが重要と思い、知事として11年3月に「KANSAI戦略」を立てました。その一環として、総合プロデュースをしていただいた天草市出身の脚本家の小山薫堂さんが、熊本県民が熊本県のよさを再発見し、好きになろうと「くまもとサプライズキャンペーン」を提唱しました。サプライズだから、小山さんの友人の水野学さん(アートディレクター)がびっくりマークのデザインを提案して下さいました。ただ、シンボルのマスコットが必要というので、おまけとしてくまモンを付けてくれました。おまけのほうが大ブレークして、くまモンが熊本県の救世主みたいになりました。小山さんと水野さんが産みの親です。

【塩田】なぜくまモンが成功したのですか。

【蒲島】一つは水野さんと小山さんのオリジナル・デザインのよさ、二番目は売り出す県庁の戦略、第三はくまモン自身の成長です。最初は動作がぎこちなかったけど、ダンスをしたり愛嬌があったりして、ものすごく成長しました。知名度が上がってきて、私もくまモンと一緒に吉本新喜劇に出演して、一緒に転んだり……。それがテレビで流れ、11年の「ゆるキャラグランプリ」で全国1位になって、人気者になりました。

一方、県庁の戦略として「楽市楽座」の方針を打ち出しました。使用料はいっさい取らないで利用できるのが当たったかもしれませんね。くまモンを使えば売れるし、企業も儲かります。くまモンを使いたい企業が急増しました。楽市楽座は織田信長の発想で、全国から商人を集め、その富によって岐阜の田舎で大きな兵力を養成することができたわけです。同じように、くまモンの共有空間に、くまモンを使おうという企業がたくさん集まりました。熊本というテリトリーは狭いけど、くまモンの共有空間は現実世界と仮想世界の両方に存在し、世界中に広がります。いろいろな人がコラボレーションし、熊本の経済的効果も上がります。県民の誇りも高くなるし、安全・安心も夢も獲得できました。プラスアルファがとても大きいのです。

日本銀行の熊本支店が熊本県内におけるくまモンの経済波及効果を分析したところ、11年11月のゆるキャラグランプリ2011優勝から2年間で1244億円。PR効果は90億円ですから、くまモンは今、営業部長ですけど、県庁の一職員としては偉大な効果を示してくれたんです。

【塩田】知事自身はどういう役割を果たしたのですか。

【蒲島】ゴーの決定を下しました。それと楽市楽座は私のアイデアです。県庁としては、投資は回収したいけど、楽市楽座でと決断しました。くまモンのグレードアップのために、最初に古巣(知事就任まで東京大学法学部教授)の東大法学部に連れていって、「くまモンの政治経済学」というテーマで講演し、次はハーバード大学(1977年から79年まで大学院に在学)、2014年8月には北京大学でも講演しました。

■知事の覚悟が県庁、職員を変える

【塩田】知事となって6年半以上が過ぎました。最初に立てた目標の達成度は。

【蒲島】知事になったとき、リーマンショックもあって大不況で、経済的停滞と閉塞感に包まれていました。そこで3点を考えました。一つは価値観の転換。経済的な価値ばかり尊重していてリーマンショックに行きついたから、「幸福量の最大化」を大事にしよう、と。幸福量は経済的な高水準、プライドと誇り、安心・安全、夢の4要素で決まっていくと思い、それに沿った政策を行ってきました。二番目は、これから暗いトンネルを県民と一緒に歩いていくことになるので、トンネルの先の夢を語ること。三番目は、好不況にかかわらず、熊本県には多くの課題があり、それも閉塞感の原因となっていたので、課題を解決することです。

課題の解決では、第一は財政再建です。就任してすぐに自分の給料を 月額100万円カットしました。結局、給料カットで県に約5000万円返しましたが、4年間で約1000億円の借金を減らして、約30億円貯金が増加しました。これが財政再建に結びつきました。第二にアナウンスメント効果です。補助金を10%から40%カットしましたが、一度、得た既得権益を放棄するのは難しいものです。よくできたなと思ったのは、やはりそれほど財政が厳しくなっていたのかと、みんなが思ったからでしょう。第三は政治的信頼です。給料の 100万円カットで、前年の税金も引かれて、残ったのは月14万円でした。そうすると、県民がお米を送ってくれました。私がカネのために仕事をしているわけではないとわかってくれました。これはとても大きかったです。

【塩田】知事の給料を100万円カットして、それで4年間の借金の減額が約1000億円というのは驚きです。どうやってそういう結果を生み出せたのですか。

【蒲島】財政再建のためには、私だけでなく、職員の給料も、県の補助金もカットせざるを得ません。説得できるかどうかは、知事自身の覚悟が一番大きいと思います。私は「自己犠牲の政治学」と言っていますが、それを見せることだと思いました。自分が一番、苦労しなければいけません。そうすることで、職員の給料カットも、労働組合がすぐに納得してくれました。

もっとも難しかったのは、就任後まもなく、会計検査院の調査で不適正経理が指摘されたときです。「今までのことはいっさい罰しないから、全部言ってくれ」と言って調べたら、会計検査院の調査以上の職員の不適正経理が出てきました。

職員にすれば、業者に預けておいて、来年、そこから買って調達すれば、スムーズにいくと思うわけです。でも、それは許されません。私は「自分で把握している事実を告白すれば 100%許すが、それ以上の事実が見つかったときは厳罰」と言って調査しました。前知事時代の不適正経理なので、私が調査した後でそれ以上のことが見つかったら、私が責任を負うと表明しました。そうすることで、職員の告白があり、私は責任を取って給料を50%カットしました。

知事に就任して2年目で、100万円の給料カットは終わっていました。今度は50%のカットとなりました。職員のこととはいえ、トップですから、私は責任を取りました。同時に、「ほかに出てきたときには重大な責任を取る」と言いました。それは辞めることです。そのくらいの取り組みで、ようやく県庁の経理文化が変わるんです。上から強く言ってできるものではありません。私は知事になって、誰も怒ったことはありません。権力的に言ってもダメです。

【塩田】注目を集めていた川辺川ダムや水俣病の問題でも新たな挑戦に踏み出しました。

【蒲島】川辺川ダム建設計画については、ご承知のとおり就任5ヵ月後に白紙撤回しました。今、ダムによらない治水を目指す方向に進んでいます。水俣病問題では、特措法の成立過程でロビー活動を行いました。特措法は、水俣病問題の解決の中で一定の成果が得られたのかなと思います。水俣病は長期にわたる問題ですから、私の任期中にすべてに対応できるとは思いませんが、いい方向に向かうようにと思っています。

■なぜ「皿を割れ」と言い続けるのか

【塩田】知事の仕事は、第一に選挙で県民の支持を獲得して活動する政治家の一面、第二に路線や政策プランを打ち出し、実現するというプランナー兼政策実行者、第三に地域の未来、地方自治のあり方、国と地方の関係などについて提言するオピニオンリーダーという役割があると思います。第四は県庁の内部をコントロールするという行政組織のトップリーダーという仕事です。県庁の組織改革や職員の意識改革にも手を着けたのですか。

【蒲島】私は、組織を全部変えなければうまくいかないとは思いません。与えられたスタッフの中で最大限にやる。無理に組織改革はしません。局長ポストの設置など、いくつかやったことはありますが、抵抗を受けたことはありません。大学のゼミみたいに職員と接するので、リーダーシップの面でも説得型です。労働組合と対峙するといった経験はありません。給料カットも自ら行ったので、職員のみんなもやってくれたのだと思います。

県庁は平等主義なので、特定の職員だけ褒めるカルチャーではありませんが、それはおかしいと思って知事表彰「蒲島賞」をつくり、優れた職員やグループを顕彰する制度を設けました。たとえばくまモンを推進したくまもとブランド推進課がグランプリを取りました。でも、そういう派手なところだけではありません。税金の徴収率を高めるために、職員が宛名を手書きで書き、それで具体的な成果が出た事例があり、その場合も、グランプリの次の賞を受賞しました。

私は「誉める、怒らない、説得する」を心がけています。それから「皿を割ることを恐れるな」といつも言っています。一所懸命、皿を洗う人は失敗して割ってもいい。一番悪いのは皿を洗わない人です。皿を割れ、つまりみんなで挑戦しようと言っています。くまモンも、公務員からすれば挑戦です。失敗したら何を言われるかわからないし、おカネもかかります。

私は意識して職員をコントロールすることはやりません。人事を通してコントロールしようと思ったことはありません。

【塩田】知事選出馬以後、ここまでの約7年間で一番辛かったことは何ですか。

【蒲島】1回目の選挙のとき、県民のために頑張ろうと思って選挙戦を戦っていて、唾を吐きかけられたことがありました。一生で初めてです。自分は一所懸命やっていても、必ずしもすべてが歓迎されるものではない。そのとき初めて政治の厳しさがわかりました。

知事就任後では、川辺川ダムのほかに、もう一つ、荒瀬ダムという大きなダムの撤去のときが辛かったです。前知事のときに撤去が決まっていたのですが、撤去に90億円くらいかかるというのです。財政再建に取り組んでいるとき、すぐ撤去すれば電力会社からおカネが入ってこなくなるし、今は電力も必要とされているので、もう少し財政的に余裕ができたときに撤去すればいいのではないかと思い、就任後2〜3カ月のとき、方向転換しました。

その頃までは、理論的に正しければやれると思っていました。ところが、政治はそうではありません。撤去してほしい、昔の川を取り戻したいというものすごく深い思いがあるわけです。その深い気持ちに気づかず、それに応えることができませんでした。それが辛かった。実際は民主党政権下で、国土交通省と環境省が一定の補助をしてくれることになりました。そのような支援を活用しながら、現在、ダム撤去工事を進めています。

■小説家、牧場主、政治家

【塩田】知事就任までの経歴を見ると、高校卒業後、地元の農協に就職して農業研修で渡米した後、学問の世界に転じて政治学を専攻し、ハーバード大学大学院で学んで、帰国後、大学教授にという異色の人生です。なぜ政治学をやろうと思ったのですか。

【蒲島】小さいとき、3つの夢がありました。小説家、牧場主、そして政治家です。プルターク(英語名。プルタルコス。帝政ローマのギリシャ人作家)の『英雄伝』を読んでジュリアス・シーザー(英語名。ユリウス・カエサル。ローマの将軍)みたいな政治家になりたいと思い、ずっと政治が頭の中にありました。ただ、遠い夢ですね。実際は貧乏なところから這い上がり、アメリカに行って、そこで農業に挫折し、政治に向かうのはそれからです。

私は農協には勤めていましたが、農業をやったことはありませんでした。農業って大変なんです。農協をやめ、派米研修生としてアメリカに渡ったんですが、その農業研修で農業の辛さが身に染みました。ただネブラスカ大学で学科研修を受けたとき、初めて勉強の面白さに目覚め、農業より勉強のほうが楽だと思ったんです。それで一度、日本に帰り、24歳でアメリカに戻ってネブラスカ大学の農学部に入り、豚の精子の保存法を研究しました。

卒業は28歳で、6年遅れていましたが、指導教授が「大学に残らないか」と言ってくれたんです。でも、生涯、勉強するのだったら一番好きなことをやりたいと思い、そこで政治学が浮かんできました。やはり政治家の夢がずっと残っていたんです。それで勉強するなら、一番いい大学に行きたいと思ってハーバード大学に行き、通常5〜6年かかる博士号を4年弱で取って日本に帰ってきました。

【塩田】政治学者として「参加型民主主義」を研究し、提唱していますが、なぜそこに着目したのですか。

【蒲島】デモクラシーの中には、エリート型民主主義と参加型民主主義があり、私はエリート型民主主義のサミュエル・ハンティントン(ハーバード大教授。アメリカの政治学者)と参加型民主主義のシドニー・バーバ(ハーバード大教授。アメリカの政治学者)という2人の先生に学びました。ハンティントンは、より効率的に国を治めるにはエリートが主導する民主主義がいいと考えます。一方、ジャン・ジャック・ルソー(フランスの政治哲学者)以来の参加型民主主義は、人々が参加すれば、組織や国、県と一体感を持つようになり、政治への関心も高まり、優れた市民になるという点がプラスの面ですが、遠回りなんです。

私は、時間がかかっても、やはり一緒に考え、一緒に参加し、一緒に話し合い、選挙にも一緒に行くという国でないと長続きしないと思います。参加型民主主義と政策の革新性を両立させている北欧などはそうです。日本は政治をとても冷ややかに見ていますが、参加しないことが自分たちのためになるかというと、そうでもないんです。

私は参加型民主主義者です。ダム問題の反対派の人たちから責められ、罵倒されたりしても、反対派の人たちがこういうふうに参加するから、県庁もその考え方をわかろうとするし、その考え方に沿えないかとか、いろいろ考える努力をするわけです。参加されたみなさんが帰るとき、私は「今日はありがとう」と言って、必ず両手で握手します。

もともと私は調和型です。博士論文は調和型民主主義です。日本の発展は、権力側にいる自民党と官僚を、発展から遅れた地方の有権者が支える形で実現しました。ハンティントンは発展、平等、参加、安定は同時には実現できないという考えですが、日本だけが巨大な分配によって発展・平等・参加・安定の四つを実現しました。それを私は「調和の理論」と言っています。

■熊本県知事選に出馬した理由

【塩田】細川護煕氏(元首相)が1991年に熊本県知事を退任したとき、後任候補として名前が取り沙汰されたことがありましたね。

【蒲島】筑波大学の助教授でした。自民党の中で候補者の調整を行って福島譲二さん(元労相)に決まり、知事選に勝って細川さんの後任知事となりましたが、もう一人の候補の背景は農協グループでした。私も元農協職員ですので、そちらの陣営から、ワンセットで全部揃っているから選挙に出ないかという話があったんです。それで、地元の先輩である自民党熊本県連会長だった小材学さん(元熊本県議会議長)に聞いたら、「いい勝負はするだろうけど、勝敗はわからん」という話でした。最後に三宅一郎先生(当時は神戸大学教授。政治学者)に相談したら、「学問をやり尽くした後でやればいい。今は学問以外のことは考えるな」と言われ、それで立ち止まりました。もちろん選挙をやろうかなという気持ちがあったから相談したんです。このときは選挙をやらなくてよかったなと思いました。

【塩田】それから17年後の2008年3月の熊本知事選に61歳で出馬しました。

【蒲島】潮谷義子前知事が3選不出馬となり、いくつかのグループから出馬しないかと話がありました。私は故郷の熊本の役に立ちたいという気持ちでしたが、家族も同僚も学生もみんな反対です。でも、何のために30数年、政治学を勉強し、研究してきたのかと考えると、やはり自分の知識を返さなければと思いました。今は政治家になってよかったと思います。それまでは論文も名声もすべて自分のためで、そういう生き方でしたが、人のために生きることが幸福なのだと初めてわかりました。

【塩田】08年に知事選に出たときは「学問をやり尽くした」という気持ちでしたか。

【蒲島】04年に『戦後政治の軌跡――自民党システムの形成と変容』(岩波書店刊)を刊行しました。多分、政治学者としてこれ以上は行けないだろうなと思いました。そのようなときに政治家という選択肢が出てきたわけです。自分の人生の短さを考えると、学者を続ければ、後は弟子を育てるくらいでしょう。選挙での当選の可能性は、私なりに非常に高いと感じていたので、出馬を決断しました。

【塩田】地方自治の現状、国と地方の関係、地方分権のあり方などをどうお考えですか。

【蒲島】実際に政治をやって初めてわかったのですが、地方分権や中央集権はあくまで手段であって、目標は日本国民が幸せになることです。私にとっては熊本県民の幸せが大目標です。その観点から言って、現在、重要なのは地方分権です。熊本県民の幸せは霞が関の部屋の中より、近くでみんなと接している私のほうがわかります。

中央集権のがんじがらめは感じています。その意味で、地方分権や道州制を唱えていますが、地方分権や道州制が実現しないから何もできないという考え方ではありません。これだけの中央集権の中でも、川辺川ダム建設計画の白紙撤回や、大型ダムの撤去もできました。地方分権や道州制がフルセットで全部揃っていなければ何もできないという主張もありますが、私は、現状でもできることをとことんまでやって、それでもダメなときに制度改革が必要という考え方です。

ただ、現在、日本では人口減少や地方創生が大きな課題になっています。それに対応できる制度は何だろうと考えると、私は道州制ではないかなと思っています。

■道州制が実現したら州都を目指す

【塩田】道州制は人口減少や地方創生の問題解決にどういう効果が期待できますか。

【蒲島】みんな東京に行ってしまって、子供を産みにくくなりますね。それはしばらく続くかもしれないけど、だんだん行く人がいなくなります。東京の強さと地方の強さは、ウィンウィンの関係です。それを一番早く理解できていたのは自民党で、最初の頃は都市で得られた所得を惜しげもなく地方に分配し、都市も農村も両方とも経済成長の便益を受けました。

ところが、経済成長の果実がなくなって、それができなくなりました。さらに世代が代わって、都市と農村の絆が弱くなってきました。昔の自民党の政治家たちは、実際に田舎で育ち、東京に出て成功した人たちです。故郷への愛情みたいなものがあり、所得を分配しました。今はまったく違います。だから、道州制を実現したらどうかというのが私の主張です。

道州制が目的ではありません。熊本県民や九州の人の幸せは道州制のほうが実現しやすいと思うからです。パラダイムシフトと言うけど、幸福量の最大化への影響を考えると、制度として中央集権型行政よりも道州制のほうが優れています。

人口減少も、九州の単位でとどめておけば、十分、雇用の場もあり、子供を産みやすい状況です。九州の可処分所得は東京より30%も上でしょう。統治のサイズがとても大事です。オランダやデンマーク、スウェーデンなどでは、社会福祉と成長が両立しています。革新的な政策をやっていて、人口減少も止めています。オランダ、デンマーク、スウェーデンなどと同じくらいの大きさの九州は、とても可能性があると私は思っています。

熊本県知事ですから、「夢の政治学」として言えば、道州制実現のあかつきには、熊本は州都を目指すことを私はずっと言い続けています。

【塩田】日本の歴史を振り返って、現代という時代、政治が果たすべき最大の役割は何だと思いますか。そのために政治リーダーが備えていなければいけない条件とは何ですか。

【蒲島】4000年前のソクラテスの言葉ですが、「君主というものは、己のためではなく、己を選んだ者たちの幸福のために選ばれるのだ」(クセノフォン『ソクラテスの思い出』)と言っています。私はずっと前からこの考え方ですが、これが一番、重要だと思います。

当然、自分の我もあるし、もちろん信念もあります。ですが、自分の信念を実現するために政治家になったわけではなく、私を選んでくれた県民の幸せのために選ばれたのだから、それに忠実に沿っていく。これが政治の原点です。ただ、そのためには「精神の自由」も必要です。ある種の統治能力も備わっていなければなりません。

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蒲島郁夫(かばしま・いくお)
熊本県知事
1947年1月、熊本県鹿本郡稲田村(現山鹿市)生まれ(現在、68歳)。熊本県立鹿本高校卒業後、地元の稲田村農業協同組合に就職し、68年に農業研修生として渡米。71年にネブラスカ大学農学部に入学。大学院修士課程修了後、79年に32歳でハーバード大学大学院博士課程修了。以後、ワシントン大学国際問題研究所客員准教授、プリンストン大学国際問題研究所客員研究員、筑波大学教授などを経て、97年に東京大学法学部教授。専門は政治過程論、計量政治学。2008年に辞職して3月の熊本県知事選に出馬・当選。現在2期目。著書は『政治参加』『戦後政治の軌跡』『私がくまモンの上司です』など多数。学者としてやり残したのはMRIを使って政治的情報がどのように処理されていくかを研究する「脳政治学」だという。

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(ノンフィクション作家 塩田潮=文 松隈直樹=撮影)