情報時代の隠れヒッキー/純丘曜彰 教授博士
/人の情報は、自分の経験ではない。ところが、毎日を忙しく情報に追われていると、自分自身ではなにも経験を積んでいないこともわからなくなる。だが、人の情報だけでは、あなたは永遠の空っぽ。自分の幸せのためには、自分自身の経験が必要だ。/
古い映画のあらすじのうろ覚えをネットで調べたりすることがある。ところが、逆に、あれ、こんな話だっけ、と、かえって疑問が膨らんでしまうことも。それで、実際の映画を自分自身で見直してみると、書いてあることと、ぜんぜん違っていたりする。これは、ビデオが普及する以前、作品を実際に見られる機会が極端に限られており、そのころの人が映画館やテレビで見て、もしくは、人から伝え聞いて、うろ覚えで書いた文章がそのまま本になり、それが何度も伝聞孫引されて、いまでも新しい著者によって新しい本に載り、そのうえ、さらにその話がネットに再録されていたりするから。
情報社会。居ながらにしてちょっと調べれば、世界中のことがわかる。だが、それはあなたの経験ではない。にも関わらず、人は、他人の経験でも自分の経験のように共感できてしまう。この共感がうまく働くこともあるが、間違いも多い。たとえば、京都が大雨で壊滅的であるとレポーターが言っているのをテレビが伝えているのを私が聞いた、としても、京都は大雨で壊滅的である、に勝手に縮約してしまう。とくにテレビはそう。テレビで見たら、私は実際に見た、に、すり替わる。しかし、テレビなんて、もっともひどいところを苦労して探してきて、大げさに伝えてナンボの商売。実際に行ってみたら、とっくに復旧していたりする。壊滅的だなんて、レポーターが勝手に騒いでいただけ。
部屋にずっと引き籠もっているヒッキーは、だれが見てもわかる。問題は、学校や会社に通い、友人や同僚、顧客と話をし、テレビやネット、読書、さらには講演会だの勉強会だのにも積極的に参加しているのに、恋愛や商売の出会いが無い、チャンスが無い、なんて言っているやつ。これは、いろいろ動き回っているのだが、ほんとうはカタツムリのように自分の狭い部屋を持って歩いているだけの隠れヒッキー。その人の毎日は、膨大な情報があるばかりで、どこにも自分自身の生の経験が無い。だから、こういうやつの話は、他人の受け売りばかりでつまらない。それで、よけい、新しい人も寄っては来ない。
そもそも、ほんとうの自分の経験は、ほんとうは他人とは絶対に共有できない。たとえば、このリンゴは甘い、という話には、じつはすでにそこに私が入り込んでいる。私が食べたからこそ、リンゴが甘かった、のであって、誰も食べていないリンゴは甘くも酸っぱくもない。そして、この自分が味わっている甘さが、同じリンゴを他人が味わっている甘さと同じかどうかなんて確かめようもない。パリはよかった、とか、あの小説はおもしろかった、とかも同じ。その人にとってよかった、おもしろかった、のであって、別の人がまったく同じように追体験できるわけではない。
ガイドブックを何百冊読んでも、それは、あなたの旅行ではない。何千の恋愛小説を楽しんでも、それは、あなたの恋愛ではない。他人の幸せな経験談をいくらかき集めても、あなた自身は絶対に幸せにはなれない。旅行でも、恋愛でも、自分自身が経験するのでなければ、けっしてわからないし、まったく意味も無い。もちろん実際の経験は、ガイドブックや恋愛小説のようにうまくいく場合ばかりではない。しかし、失敗も含めて、それこそがあなたの本当の生の経験。それこそが、あなたの人生、あなたの存在意義。
テレビを消し、ネットを閉じて、後を振り返ったとき、そこにあるものが、それがあなたの本当の生活。いくら情報を集めても、あなた自身は永遠に空っぽのまま。それがイヤなら、自分の狭い世界から自分自身で一歩を踏み出し、自分自身の生の経験を積んでみよう。
by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。
古い映画のあらすじのうろ覚えをネットで調べたりすることがある。ところが、逆に、あれ、こんな話だっけ、と、かえって疑問が膨らんでしまうことも。それで、実際の映画を自分自身で見直してみると、書いてあることと、ぜんぜん違っていたりする。これは、ビデオが普及する以前、作品を実際に見られる機会が極端に限られており、そのころの人が映画館やテレビで見て、もしくは、人から伝え聞いて、うろ覚えで書いた文章がそのまま本になり、それが何度も伝聞孫引されて、いまでも新しい著者によって新しい本に載り、そのうえ、さらにその話がネットに再録されていたりするから。
情報社会。居ながらにしてちょっと調べれば、世界中のことがわかる。だが、それはあなたの経験ではない。にも関わらず、人は、他人の経験でも自分の経験のように共感できてしまう。この共感がうまく働くこともあるが、間違いも多い。たとえば、京都が大雨で壊滅的であるとレポーターが言っているのをテレビが伝えているのを私が聞いた、としても、京都は大雨で壊滅的である、に勝手に縮約してしまう。とくにテレビはそう。テレビで見たら、私は実際に見た、に、すり替わる。しかし、テレビなんて、もっともひどいところを苦労して探してきて、大げさに伝えてナンボの商売。実際に行ってみたら、とっくに復旧していたりする。壊滅的だなんて、レポーターが勝手に騒いでいただけ。
部屋にずっと引き籠もっているヒッキーは、だれが見てもわかる。問題は、学校や会社に通い、友人や同僚、顧客と話をし、テレビやネット、読書、さらには講演会だの勉強会だのにも積極的に参加しているのに、恋愛や商売の出会いが無い、チャンスが無い、なんて言っているやつ。これは、いろいろ動き回っているのだが、ほんとうはカタツムリのように自分の狭い部屋を持って歩いているだけの隠れヒッキー。その人の毎日は、膨大な情報があるばかりで、どこにも自分自身の生の経験が無い。だから、こういうやつの話は、他人の受け売りばかりでつまらない。それで、よけい、新しい人も寄っては来ない。
そもそも、ほんとうの自分の経験は、ほんとうは他人とは絶対に共有できない。たとえば、このリンゴは甘い、という話には、じつはすでにそこに私が入り込んでいる。私が食べたからこそ、リンゴが甘かった、のであって、誰も食べていないリンゴは甘くも酸っぱくもない。そして、この自分が味わっている甘さが、同じリンゴを他人が味わっている甘さと同じかどうかなんて確かめようもない。パリはよかった、とか、あの小説はおもしろかった、とかも同じ。その人にとってよかった、おもしろかった、のであって、別の人がまったく同じように追体験できるわけではない。
ガイドブックを何百冊読んでも、それは、あなたの旅行ではない。何千の恋愛小説を楽しんでも、それは、あなたの恋愛ではない。他人の幸せな経験談をいくらかき集めても、あなた自身は絶対に幸せにはなれない。旅行でも、恋愛でも、自分自身が経験するのでなければ、けっしてわからないし、まったく意味も無い。もちろん実際の経験は、ガイドブックや恋愛小説のようにうまくいく場合ばかりではない。しかし、失敗も含めて、それこそがあなたの本当の生の経験。それこそが、あなたの人生、あなたの存在意義。
テレビを消し、ネットを閉じて、後を振り返ったとき、そこにあるものが、それがあなたの本当の生活。いくら情報を集めても、あなた自身は永遠に空っぽのまま。それがイヤなら、自分の狭い世界から自分自身で一歩を踏み出し、自分自身の生の経験を積んでみよう。
by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。