勉強するのは何のため?〜僕らの「答え」のつくり方/寺西 隆行
『勉強するのは何のため?〜僕らの「答え」のつくり方』(苫野一徳/日本評論社)を読んでの感想です。


主に教員志望の学生が集う「ALL教育フェスタ」の基調講演を拝聴し、その考え方に触れ、学び、共感した苫野一徳さん。


すぐに購入した『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ)も、お世辞抜きに素晴らしい本でした。


そんな苫野さんの新著。


『勉強するのは何のため?〜僕らの「答え」のつくり方』(日本評論社)


これまたとっても素敵な書籍でした。


多くの「保護者」の方に手をとっていただきたいと思いました。


加えて、多くの「大人」、多くの「中高生」にも読んで欲しいと思いました。


もちろん、タイトルに込められている、「なんで勉強するの?」の答えに近づけるから、なのですが、それ以上に、考える、学ぶ、議論する、そしてその先にある、誰しもが「社会」の中で幸せになる、幸せを形づくっていく、そのために自分自身が弁えておかなければいけない大切な姿勢が書かれているからです。


※あっ、中学生になる前に身につけておきたい最低限の学力形成には、是非Z会の中学準備コースをどうぞ(笑

「勉強するのは何のため?」の解そのものに直接近づく内容は、是非書籍を読んでいただいて、と思います。
本記事では、中に書かれている内容で、共感した部分を引用しご紹介いたします。
(以下、引用部分を、“ ”くくりでご紹介させていただきます)


○“教育をめぐって意見が対立する理由、それはまず何より、わたしたち全員が教育を受けた経験をもっているからです。”


冒頭の一文です。


この文章に出会えただけでも「そうそう!読んでよかった。このあとの内容も楽しみだな〜」という気持ちにさせられました。


教育の良し悪しを語るとき、「自分の経験で」「良いと思ったこと」を「良い」と言うことが大半です。
もちろん語るのは自由ですが、この部分を弁えているか弁えていないかで、その意見が「押し付け」になるかそうじゃないかが分かれます。


“たとえば、かつて受験エリートだった大人たちは、そんな自分の経験を一般化して、「勉強するのはいい大学にはいっていい仕事につくためだ」と、自分の子どもにもいったりすることがあります。


 一方、学歴を必要としない職業についた大人たちは、そんな自分の経験を一般化して、「学校の勉強なんて何の役にも立たない」というかもしれません。
 でも、人それぞれ、受けてきた教育の経験も、そこから得たものも、役に立ったものも立たなかったものも、本当はみんな違っているのです。”



すごく共感します。
一般的な表現にするのはいい(仕方ないし、僕だってやる場合があります)とは思うんですけど、一般化して押し付ける、のが良くないと思うんですよね。



ほかにも「一般化のワナ」と表現し、本著では、いろいろな例が紹介されていますので、思考の訓練にもなりますね。例えば「学校の先生、塾の先生、どっちがいい?」など。


○“じゃあわたしたちは、「あちらとこちら、どちらが正しいか?」じゃなくて、いったいどう考えていけばいいのでしょうか。
 考え方はシンプルです。あちらもこちらもできるだけ納得できる、第三のアイデアを考えよう。”

この文章、凄く素敵だと思います。「教育」カテゴリの本は、そもそも「教育」に関心の高い人が手にとってしまうのですが、この「考え方」は多くの方に伝えたい!



上の「一般化のワナ」の例であげた「学校の先生、塾の先生、どっちがいい?」という質問なんかまさにそうですよね。