ネットはシャッター商店街/純丘曜彰 教授博士
/ろくに人に語るべき情報もないガキと老人が吹き溜まった結果、ネットはSN比が悲劇的に悪化。すさんだシャッターだらけの地方都市さながらの場末状態。しかし、いまさら他人と話題を合わせなくてもいいのだから、そんなものに振り回される必要もあるまい。/
ネットの創生期、自分たちの大学のコンピュータを世界に繫ぐだけでも、とてつもない苦労だった。いまのようにネットで調べようにも、そもそもネットに繋がっていないのだし、本でさえまだほとんどなく、マシンも設計自体がばらばらで、ただ試行錯誤を繰り返すしかない。いや、それ以前に、外に繫ぐ、というだけで、なぜそんな余計なことを、と、部外者たちに邪魔された。そのかわり、いったん繋がってしまえば、アマチュア無線のように、海外のまったく会ったことも無い相手でも、仲間として連絡を返してくれた。一定の水準に達していない者は入り込めない一種の秘密結社のようだった。
あれから四半世紀。いまや誰でも、四六時中、ネット。歩きながら、自転車に乗りながら、それどころか車を運転しながらまでのネット中毒。その結果、もはやネットは傍若無人のスクランブル交差点。リアルな世界でだれにも相手にされていない暇なガキや老人ほど、人に語るべき情報も無いのに、自己の存在証明だけのために、しゃしゃり出てきて、人に絡みまくる。かくして、SN比(シグナル/ノイズ)は悲劇的に悪化。検索を駆使すればどうにかならないことはないが、ボランティアでおもしろい情報を提供していた有志たちは、ガキや老人の居座り、絡みを嫌って、表通りからは徐々に撤退。まるで、地べたに座り込んでカップラーメンを喰っているガキたちのたまり場のコンビニと、茶飲み老人たちが店の奥で延々とだべり続けている古い帽子屋や学生服屋しかない地方都市のシャッター商店街のようになってきた。
アフィリエイト広告やウィキペディアなどに象徴されるように、ネット情報の大半は、孫引き、曽孫引きの古いネタの寄せ集め。そもそもアフィリエイトとは、養子、という意味。人々は、本人が語りたがるほど、オリジナルの情報など持ってはいない。だから、人の情報の受け売りで、勝手に養子になりたがる。それも、プロのジャーナリストのように、裏を取る基本も技術も無いから、正体不明のウワサだけが秒速瞬殺で広まる。暇つぶしなら、そういう怪しげなヨタ話につきあうのもいいが、本業で急がしいまともな連中は、ちゃちゃっと実店舗の直営サイトでネットショッピングをする以外は、余計な面倒に関わりたくもあるまい。
なぜ地方都市がダメになったのか。活性化だ、町おこしだ、賑わいが大切だ、とか言って、ろくな商品も置いていない店舗に、ろくにカネも持っていない暇なガキと老人ばかりがたむろった結果。そういうところには、まともな連中は寄りつかない。ネットも同じ。名目上のアクセス数だけを誇って広告収入を得ていたサイトも、そこに何度もアクセスしている連中にはじつはリアルな購買力がほとんどないことがバレれば、やがて価格ダンピングに苦しむことになるだろう。そうでなくても、いったんガキと老人のヨタ話の吹きだまりになってしまうと、そこはもう場末。アクセス数も、遠からず破局的に急落する。
ならば、ネットに代わる次のリアルな広場があるのか。いや、それなら、そもそもそんなものがまだ必要な時代なのか、を問うてみた方がいい。昔は、近所でも、職場でも、ましてタクシーや美容院、飲食店などの接客業では、他人と話題を合わせる必要があった。だから、好きでなくても、同じ雑誌、同じ番組、同じ野球、同じ歌手を見て、ねぇねぇ、あれ見た? と、やる必要があった。しかし、いまはもう、他人と話題が合わなくて当然。ねぇ見た? と聞かれても、いや見てない、そういうの、ぜんぜん関心が無いんだよね、で、おしまい。べつに相手も、そんなもの、と思っている。つまり、ようやく個人の趣味の時代が来た。ネットで裏通りを探せば、同好の徒だけが集う静かな場所が別にある。
by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。
ネットの創生期、自分たちの大学のコンピュータを世界に繫ぐだけでも、とてつもない苦労だった。いまのようにネットで調べようにも、そもそもネットに繋がっていないのだし、本でさえまだほとんどなく、マシンも設計自体がばらばらで、ただ試行錯誤を繰り返すしかない。いや、それ以前に、外に繫ぐ、というだけで、なぜそんな余計なことを、と、部外者たちに邪魔された。そのかわり、いったん繋がってしまえば、アマチュア無線のように、海外のまったく会ったことも無い相手でも、仲間として連絡を返してくれた。一定の水準に達していない者は入り込めない一種の秘密結社のようだった。
あれから四半世紀。いまや誰でも、四六時中、ネット。歩きながら、自転車に乗りながら、それどころか車を運転しながらまでのネット中毒。その結果、もはやネットは傍若無人のスクランブル交差点。リアルな世界でだれにも相手にされていない暇なガキや老人ほど、人に語るべき情報も無いのに、自己の存在証明だけのために、しゃしゃり出てきて、人に絡みまくる。かくして、SN比(シグナル/ノイズ)は悲劇的に悪化。検索を駆使すればどうにかならないことはないが、ボランティアでおもしろい情報を提供していた有志たちは、ガキや老人の居座り、絡みを嫌って、表通りからは徐々に撤退。まるで、地べたに座り込んでカップラーメンを喰っているガキたちのたまり場のコンビニと、茶飲み老人たちが店の奥で延々とだべり続けている古い帽子屋や学生服屋しかない地方都市のシャッター商店街のようになってきた。
アフィリエイト広告やウィキペディアなどに象徴されるように、ネット情報の大半は、孫引き、曽孫引きの古いネタの寄せ集め。そもそもアフィリエイトとは、養子、という意味。人々は、本人が語りたがるほど、オリジナルの情報など持ってはいない。だから、人の情報の受け売りで、勝手に養子になりたがる。それも、プロのジャーナリストのように、裏を取る基本も技術も無いから、正体不明のウワサだけが秒速瞬殺で広まる。暇つぶしなら、そういう怪しげなヨタ話につきあうのもいいが、本業で急がしいまともな連中は、ちゃちゃっと実店舗の直営サイトでネットショッピングをする以外は、余計な面倒に関わりたくもあるまい。
なぜ地方都市がダメになったのか。活性化だ、町おこしだ、賑わいが大切だ、とか言って、ろくな商品も置いていない店舗に、ろくにカネも持っていない暇なガキと老人ばかりがたむろった結果。そういうところには、まともな連中は寄りつかない。ネットも同じ。名目上のアクセス数だけを誇って広告収入を得ていたサイトも、そこに何度もアクセスしている連中にはじつはリアルな購買力がほとんどないことがバレれば、やがて価格ダンピングに苦しむことになるだろう。そうでなくても、いったんガキと老人のヨタ話の吹きだまりになってしまうと、そこはもう場末。アクセス数も、遠からず破局的に急落する。
ならば、ネットに代わる次のリアルな広場があるのか。いや、それなら、そもそもそんなものがまだ必要な時代なのか、を問うてみた方がいい。昔は、近所でも、職場でも、ましてタクシーや美容院、飲食店などの接客業では、他人と話題を合わせる必要があった。だから、好きでなくても、同じ雑誌、同じ番組、同じ野球、同じ歌手を見て、ねぇねぇ、あれ見た? と、やる必要があった。しかし、いまはもう、他人と話題が合わなくて当然。ねぇ見た? と聞かれても、いや見てない、そういうの、ぜんぜん関心が無いんだよね、で、おしまい。べつに相手も、そんなもの、と思っている。つまり、ようやく個人の趣味の時代が来た。ネットで裏通りを探せば、同好の徒だけが集う静かな場所が別にある。
by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。