未来を切り拓く次世代ロケット「イプシロン」(1)【テレスコープマガジン】
小惑星探査機「はやぶさ」の活躍はまだ記憶に新しい。そのはやぶさを宇宙に送り届けたのは、日本が誇る固体ロケット「M-V」(ミュー・ファイブ)であった。"世界最高性能"とも呼ばれたこのロケットは、コスト高を理由に2006年に廃止されてしまったのだが、現在、その後継として開発が進められているのが「イプシロン」である。プロジェクトマネージャーとしてイプシロンの開発を率いる宇宙航空研究開発機構(JAXA)の森田泰弘教授に、イプシロンとはどんなロケットなのか、今までのロケットとは何が違うのか、詳しく話を伺った。
──森田先生はM-Vでは最後のプロジェクトマネージャーでしたね。
私が宇宙科学研究所(宇宙研、当時)に来たのは1990年。システム研究系の助手に採用されたのが始まりでした。当時、宇宙研は「M-3SII」というロケットを打ち上げていましたが、ちょうど新型の「M-V」の開発が始まったところで、私は誘導制御の開発を担当しました。ただ、宇宙研は衛星やロケットで仕事を区別しないところなので、「ジオテイル」「のぞみ」などの衛星や、月面に撃ち込む槍状の観測装置「ペネトレータ」など、ロケット以外にも関わりましたね。
M-Vは1997年の初号機以来、廃止までに合計7機が打ち上げられましたが、最後の3機をプロジェクトマネージャーとして担当しました。宇宙研は3機関の統合により、2003年10月に現在の宇宙航空研究開発機構(JAXA)になりましたので、ちょうど統合後のM-Vを全て担当したことになります。
──ペンシルロケットから続く日本の固体ロケット技術。その集大成とも言えるM-Vが廃止されて、当時、どのような心境でしたか?
廃止が発表された2006年、「イプシロン」の開発はまだ始まっておらず、先が全く見えない状態でした。
M-Vは4号機での失敗があって、5号機で大規模な改良を実施。5号機以降は4機連続で成功しており、しかも最後の2機は射場での不具合が1件も無かったほどに、機体の完成度が高まっていました。M-Vは固体ロケットとしては世界最高性能と言われ、何機も打ち上げられて活躍するのはまさに「これから」だっただけに、無理矢理引退させられたのには結構悔しい思いがありました。
[写真] M-Vロケットの7号機。2006年9月23日に、太陽観測衛星「ひので」(SOLAR-B)を搭載して打ち上げられた。
Credit:JAXA
──チームの士気はどうでしたか?
M-Vの廃止が決まったとき、実はまだ7号機の打ち上げが残っていました。私の好きなプロ野球で喩えるならば、選手が「今シーズン限りで引退する」と、オールスター戦のころ宣言するようなものです。ペナントレースの行方はこれからですよね。
なのでプロジェクトマネージャーとしては、7号機の打ち上げの士気が落ちるのを一番恐れていました。将来のロケットはどうなるのか、自分たちがやっていた仕事はどうなるのか、全く分からない時期でしたので、チームが空中分解する可能性さえありました。
ですが、みんな腐ることなく 一つにまとまり、成功という最高の形で終わることができました。もちろん悔しい気持ちはありましたが、次のロケット開発に気持ちを切り替えていましたね。イプシロンに向けて、良いスタートになったと思います。
──そのころから取材していますが、森田先生はいつも笑顔で、こちらが不思議になるくらい前向きでした。それはなぜでしょうか?
これはチャンスでもあるんです。これまでのロケット開発は、あるロケットを開発してから、それを運用しながら、次のロケット開発を始めるというスタイルでした。新型ロケットの開発と、現行ロケットの運用が、必ず並行しているわけです。
するとどうしても、段階的な開発になってしまうんです。ロケットを丸ごと一新せず、例えば1段目だけ、2段目だけを変えるとか。M-Vを運用しながら改良するとなると、善し悪しは別にして、どうしてもM-Vに引っ張られてしまう。
ところがイプシロン(当時はまだ「次期固体ロケット」という名称)では、これがどうなったかというと、M-Vはきっぱり止めて、次のロケットは全く白紙、ゼロから考えなさい、ということになりました。
ベースが無くなったことで、開発する方としては大変な部分もありましたが、逆に言えば、新しいことがやりやすい状態でもありました。極端に言えば、今までの固体ロケットのことは忘れてもいいわけで、戸惑いもありましたが、開発のリーダーとしては、非常にやり甲斐がありましたね。
(つづく)
記事提供:テレスコープマガジン