『人生、成り行き―談志一代記』立川談志、 吉川潮(聞き手)/新潮社

写真拡大

立川談志、本名松岡克由。2011年11月21日没。享年75。
生前に自分でつけた戒名は「立川雲黒斎家元勝手居士」。映画「クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望」とかぶるという声があったが、もちろん談志のほうが先だ。1983年に落語協会を脱退して立川流を興したあたりから、この洒落は口にしていたと記憶している。雲古に関する談志の文章の最高傑作は、弟子である高田文夫と故・景山民夫の共著『あのころ君はバカだった 民夫くんと文夫くん』に寄せられた文庫解説ではないかと思う。機会があったら一読をお薦めしたい。

談志が逝ってしまって、私は寂しい。ニュースを見てからもう10日以上も経つのに、まだ寂しい。仕方のないことである。今、できることとして文章を書く。
私は芸をどうこう言えるほど談志の高座を聴いていないし、演芸評論家の看板を上げているわけでもない。だから一書評ライターの追悼として、今日は談志についての本を紹介しようと思うのである。よかったら、しばしおつきあいください。

訃報が流れたとき、twitterのタイムラインで多く見られたのが「『談志が死んだ』にはまだ早かったのに」という嘆き節だった。ツイートした方には悪いが、その洒落は二番煎じなのである。2003年に『談志が死んだ立川流はだれが継ぐ』という本が出ている。これは「来るべき時」に備えて、立川流がどうあるべきか一門の落語家たちが対談・鼎談などの形で討論を交わした本だ。長らく品切状態にあり、今こそ復刊されてしかるべきだと思うのだが、難しいだろう。執筆者の中にすでに立川流にいない者がいるなど、8年の歳月を経て現状とは合わない内容になっているからだ。師匠に先立ち、立川文都は2009年に亡くなった。また、快楽亭ブラックは素行を問われて2005年に除名になっている。その経緯を綴った『借金2000万円返済記』を読むとブラックの才能を愛しつつも除名処分を行わざるをえなかった談志の苦悩が読者にも伝わってくる。ブラックさん、親不孝だぜ。
逆に『談志が死んだ』刊行時に一門にいなかった人間も存在する。2011年に談志の直弟子としては最後の真打昇進を果たした(2011年12月現在)、立川キウイである。2003年当時、キウイを含めて立川流の前座全員が「二つ目(前座と真打の間にある地位)昇進への意欲が見られない」という理由で破門になっていたのだ。その詳細はキウイの自伝『万年前座 僕と師匠・談志の16年』に詳しい。自ら破門を宣告したキウイを前に談志が揺れる場面が感動的だ。

 ――自ら決めたとはいえ、もし自分が受ける側だったら、たしかに今の立川流の二つ目昇進基準は厳しい――師匠はブツブツ……。
 僕は何も言えず神妙……。
 やがて、タクシーが来て、乗り込む瞬間、師匠は前を向いたまま言いました。
「しかし、俺がやれと言っているんだ。師匠がやれと言っているんだ。俺のためにやれ」

立川流において談志が弟子たちに要求したことは、単なる情愛ではなくて価値観のつながりだった。他の一門において落語家の師弟は親子に代わるような情の紐帯で結ばれる。落語界という古典芸能の世界が現代に生き残っているのは、こうした擬似家族的な連帯を重視したからでもある。しかし談志はそれを否定し、連帯の原理を「価値観」だとした。
価値観を同じくする者同士だから一緒にいるのだ。
したがって、そこに疑問を感じた者は立川流にいる意味がなくなることになる。立川流が談志を教祖とした新興宗教に喩えられたり、脱落者が「脱北」を名乗ったりするのはそういう理由である。そうした立川流のあり方をもっとも肯定的にとらえ、理論武装したのが立川志らくだろう。
日本大学芸術学部在籍時に、落語研究会の先輩である高田文夫の推薦によって立川流に入門した志らくは、談志の教えを絶対視し、その価値観を自らのものとして骨肉化した落語家だ。志らくは『全身落語家読本』など著書も多いが(『読本』は立川流以外の一門への攻撃的な表現が詰まった本で、これを読んだ落語家が「志らくを殴る」と激高した)、一冊読むのであれば『雨ン中のらくだ』をお薦めする。談志の代表作を18篇選び解説するという師匠論と、志らくが談志に入門して現在に至るまでの修行の日々を語る内容とを合体させた本で、読み終えると談志と志らく両方に詳しくなる。もちろん談志についての芸論も満載だ。

 ――談志の凄さの一つに、その土地の水に芸を合わせないところがあります。
 普通芸人は合わせます。しかし談志は、常日頃自分がやっている落語をぶつけていきます。相手がまったく落語になじみがないような田舎の人でも、これが談志だという落語をするのです。だから地方公演に出かけてネタ帳を見て、他の人気者の落語家が、わかりやすい爆笑ネタを一席、最後にお涙頂戴の人情噺なんかをやっていたりするのを知ると、「商売をしてやがる」と軽蔑します。
 田舎だからといって何を基準に落語が通じないと判断するのか。年寄りだからギャグが通じないと決めつけるのは客への冒涜ではないかと。

志らくの兄弟子で、当代でもっとも独演会のチケットをとりにくい落語家の1人である立川談春には自身が真打に昇進するまでを描いた自伝的エッセイ『赤めだか』がある。第24回講談社エッセイ賞を受賞した名著であり、私自身すでにあちこちで何回も紹介してきた本なので気が引けるが、立川談志について知ろうとするとき、どうしても避けては通れない本である。ここで描かれているのは、誰よりも巨大な存在と認める相手に対して精一杯つっぱろうとし、悩み、ひねくれ、駄々をこね続けた男の姿だからだ。自分がやってきたことがすべて師匠談志に「愛されたい」という気持ちの裏返しであったことに談春が気づく最終章は圧巻だ。談志に自分を認めさせた証拠である真打昇進の真打の座をつかもうとして、談春はあがきまくるのである。
本書でも談志の痺れるような語録を味わうことができる。何回も引用した言葉だがまた書く。

 ――坊や、よく覚えとけ、世の中のもの全て人間が作ったもんだ。人間が作った世の中、人間にこわせないものはないんだ

 ――己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱味を口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。(中略)現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う

1978年に談志に入門し、一門の中で唯一、その気配りを認められて住み込みの内弟子となることを認められた男がいる。立川談幸だ。その著書『談志狂時代』、『談志狂時代2 師匠のお言葉』は、最も近くで談志を見つめてきた人物ならではの師匠本である。入門一日目に談幸が体験したエピソードが、あまり他では語られない談志の人となりを感じさせて私は好きだ。

――談志がティッシュペーパーを出して痰を吐いた。私はすかさずその丸めたティッシュを談志の手から受け取ろうとした。すると談志は私の手を制して言った。
「いや、これはいい」
 談志は自らのポケットの中にそれをさり気なくしまい込んだ。
 弟子といえどもこういう不浄なものは始末をさせないという、談志の清潔さに対するポリシーをそこに感じた。

そろそろ字数が尽きてきた。談幸の兄弟子である立川談四楼は、小説家としての活動もしている人で、落語家がプロボクサーに挑戦するという破天荒な『ファイティング寿限無』などの代表作がある。着々と勝ち進み、ついに世界戦にたどりついた落語家ボクサーが、病床の師匠を見舞うこともできずに試合へ臨む姿は、現実の師弟を彷彿とさせて涙を誘う。また談四楼の自伝小説『シャレのち曇り』は立川流が落語協会から脱退するに至った経緯を当事者の目から描いた作品である。直接のきっかけは、彼が協会の定めた真打昇進試験で落選させられたことなのだ。
以上に挙げた弟子たちの本に加え、膨大な談志自身の著作がある。一冊挙げるとしたら、吉川潮が聞き役をつとめた自伝『人生、成り行き』だろう。談志は演者としてはもちろん、批評家としても優れた才能の人物だった。驚くべき記憶力がその資質を支えていたことが、本書を読むと判るはずだ。なぜ人気の絶頂期に談志は参議院議員になったのか、そして国会での経験を元にどのように芸を開花させていったのか、師匠である五代目柳家小さんや同期のライバルたちに対してどのような思いを持っていたのか、本書を読めば一応の概観ができるはずだ。

冒頭で寂しいと書いた。しかし、寂しい一方で安心感もある。安心感というと失礼かもしれないが、これで落語が終わりになる、とはちっとも思わないからだ。
10年前に古今亭志ん朝が亡くなったとき「もうこれで東京の落語は終わりだ」と世界の終末が来たかのような嘆き方をする「落語ファン」が続出したことを記憶している。江戸っ子を絵に描いたような志ん朝が逝っちゃったんだから哀しいのは判るが、それは他の落語家に失礼ってものである。そのとき談志は(正確な引用ではないが)「死んじゃったものは仕方ないじゃないか。いいときに死んだと思おうよ」と言ったそうである。死者にすべてを背負わせても仕方ない、残った人間がなんとかするしかないんだ、という優しさだ。そして発奮し、輝きのある芸で東京落語が死滅したわけではないことを天下に示した。その姿勢に背中を押され、一門の落語家たち、そして談志を尊敬する若手たちも発奮した。奮起があったからこそドラマ「タイガー&ドラゴン」のヒットに端を発する落語ブームが起きたのだ。

そう、談志はもういない。でも落語家はまだいる。
死んでしまったものは仕方ない。
きっと誰かが、そう言ってくれると信じているぜ。
(杉江松恋)