「奥さん、見つかったそうですね」被害者女性の夫にかかってきた“奇妙な電話”、警察は「ある男」を逮捕するが…《女性7人が死亡》佐賀で起きた連続殺人の「あまりに怖すぎるその後」(昭和50年の事件)
〈学校のトイレで見つかったのは「12歳少女の遺体」…《女性7人が死亡》佐賀県を恐怖に陥れた「連続殺人鬼」はどこへ消えた(昭和50年の事件)〉から続く
佐賀県の狭いエリアで起きた「水曜日の絞殺魔事件」。小学校の便槽から見つかった12歳少女の白骨遺体と20歳女性の腐乱死体を皮切りに、次々と女性が行方不明に--。
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不審な男の存在や怪文書が捜査を攪乱するなか、事件は悪夢の連鎖へと突入していく。山林で同時に発見された3体の遺体から、警察は「ある男」を逮捕するが……。鉄人社の新刊『知ったら最後、夜眠れなくなる 世界の未解決ミステリー68』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目)

写真はイメージ ©getty
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2人目の犠牲者
実は、この小学校の便槽では、3日前の6月24日にも女性の遺体が見つかっていた。それが2人目の犠牲者、百武律子さん(当時20歳)だ。彼女は普段、杵島郡大町町で両親や姉妹たちと暮らしていたが、1980年4月12日(土曜)は怪我で入院中の父親の看病のため母親は病院に泊まり込み、姉妹たちも知人や友人宅で外泊しており不在。
彼女は23時半ごろ、誰もいない家にアルバイト先の喫茶店から帰宅する。後の調べでネグリジェに着替えた痕跡があったことから、律子さんが家に戻ったことは間違いない。そして、そのまま行方不明となってしまう。
4日後の4月16日、律子さんの父親宛てに〈娘ハ帰ラナイダロウ、オ前モ苦シメ〉という内容の差出人不明の手紙が届く。また、同じころ、「人捜しのテレビ番組に出るな」「律子さんの写真を出すな」という電話が若い男の声で数回かかってきた。単なるいたずらとも思えるが、後の警察の調べによると、律子さんは白石町在住の、姉と同棲中の無職の男U(同29歳)と交際中で、二股をかけられていることに悩み、何度か自殺未遂を図ったことがあるという。
2ヶ月後の遺体発見(6月24日)は偶然だった。
顔が判別できないほど腐乱していた遺体
この日、衛生会社の作業員が、須古小学校で2ヶ月に一度行う尿の汲み取り作業に就いており、北側校舎トイレの便槽ふたを開けたところ、中に人の遺体が浮かんでいるのを発見し、警察に通報した。
遺体は全裸・仰向けの状態で浮かんでおり、顔は判別できないほど腐乱していたが、左手親指の指紋から律子さんと判明。司法解剖の結果、死後1、2ヶ月が経過しており、死因は首を絞められたことによる窒息死の可能性が高いこともわかった。
前出の十三子さんの遺体発見も、律子さんの遺体が見つかった過程で発覚したことだ。須古小学校の教頭が「6月18日にプール開き準備のために(プール横の)トイレの汲み取りをしようとしたが、そのときに業者が『(便槽に)石がいっぱい詰まっていて、やりにくかった』と言っていた。
念のために(プール横のトイレ便槽も)調べてほしい」と警察に申し出ており、その捜索中に発見されたのである。
十三子さんと律子さんの住む家はわずか4キロの近距離。死体遺棄の場所も同じだったことから、警察は同一人物による犯行と睨む。
そこで浮上してきたのが前出のUだ。彼は須古小学校の出身で、自宅も同校のすぐそば。律子さんの失踪後、地元の新聞社を訪れ「彼女を探さないでくれ」と言う一方「探してくれ」と言うなど、矛盾した言動を繰り返していた。
捜査線に浮上した「不審な男」
またUは1人目の被害者、十三子さんが失踪した当時、彼女の母親が勤務するクラブにたびたび出入りしており、後に母親が佐賀市内でクラブを経営し始めると、その店にも何度か顔を見せていた。
こうした状況から警察は両事件にUが関与している可能性が高いとみて、1980年9月8日、別件の婦女暴行容疑で逮捕。同時に家宅捜索を実施し、律子さんの父親に送られた脅迫状と同じ便箋を発見、筆跡鑑定の結果、Uが書く文字と一致したため、ますます疑惑を深める。が、Uは直接の逮捕容疑は認めたものの、殺人事件との関与は頑なに否定した。
律子さんが行方不明になった4月12日のアリバイについても「佐賀市内のバーで23時ごろまで飲んでおり、朝方帰宅した」と説明。肝心の律子さんの失踪時刻と推定される23時半ごろのアリバイは明確ではなかったものの、以降の取り調べで、Uと事件を結びつける確たる証拠が出ず、それ以上の追及は打ち切られることになる。
1年後の1981年10月7日(水曜)、北方町の縫製工場の工員として働く池上千鶴子さん(当時27歳)が17時半に退社したまま行方がわからなくなった。
最後に目撃されたのは仕事帰りに寄ったと思われるスーパーの駐車場で、職場の同僚が「赤茶色の乗用車に乗った30代と思われる男と親しげに立ち話をしている姿を見た」と証言している。
夫が白石署に捜索願を出し、警察が捜索を続けているなか、2週間後の21日14時20分ごろ、職場から約40キロ離れた三養基郡中原町(現・みやき町)の空き地で首に電気コードを4重に巻かれて死んでいる千鶴子さんを発見。
検死の結果、死因は窒息死と判明した。ちなみに、千鶴子さんは行方不明になる前に4日間、「母親の看病のため」と会社に伝え欠勤していたが、そのような事実はなかったことがわかっている。
暴行された11歳少女の遺体
4ヶ月後の1982年2月17日(水曜)、今度は同郡北茂安町(現・みやき町)で、小学5年生のN子さん(当時11歳)が16時20分ごろ、下校途中で友達と別れてから行方不明となり、翌日18日朝、千鶴子さんの遺体発見場所から約2キロ離れたミカン畑の中でランドセル姿で死んでいるのが発見される。死体は下半身が裸にされ、暴行の痕跡あり。
首にストッキングが巻かれており、死因はこのストッキングで首を絞めたことによる窒息死と判明し、死亡推定時刻は友達と別れて10分後の16時半ごろとされた。
捜査に乗り出した警察は、N子さんが行方不明になった当日、同一人物と思われる不審な男が何度も目撃されていた事実を把握する。
年齢は30歳から40歳、鼻筋の通った目のきつい細面のその男は白い車(福岡ナンバー、車種は不明)に乗り、まずは正午ごろに北茂安町の「キュウピィマーケット前」のバス停でバスを待っていた主婦に「乗っていかんですか」と声をかけた。あまりにしつこい誘いに主婦が「警察を呼びますよ」と断ったところ、男は睨みつけながら車に戻っていったそうだ。
14時半ごろ、主婦が声をかけられた場所から約5キロ離れた神埼郡三田川町(現・吉野ヶ里町)の三田川小学校の校舎のそばで、似たような男が車を停め、下校中の1人の女子児童に「ピンク・レディーの写真を見せるからこっちへ来なさい」と言いながら児童を抱きかかえてトイレに連れこんだ。が、児童が大声で泣き出したため、男は何もせずに姿を消す。
15時10分ごろ、白い車の男は再び北茂安町に現れ、下校中の北茂安中学校の女子生徒2人にしつこく話しかけ、15時半ごろには小学2年の女児3人に「家まで送るから乗らんね」と声をかけている。N子さんが行方不明になるのは、その50分後のことだ。
警察は男の似顔絵を公開
2月20日、警察は男の似顔絵を新聞に公開。情報提供を求めたが、身元特定に繋がるようなものは寄せられず、この男がN子さんを殺害したのか、千鶴子さん殺害犯と同一人物だったのかはわからず仕舞いだった(前出4人の殺害事件は、それぞれ発生から15年が経過した日に公訴時効が成立)。
それから5年が経過した1987年から1989年にかけ、立て続けに3件の失踪事件が発生する。
1人目は1987年7月8日(水曜)に姿を消した藤瀬澄子さん(当時48歳)。彼女は病気で自宅療養中の夫に代わり家計を支えるため、武雄市内の自宅から歩いて5分ほどの料亭で仲居として働いており、この日は仕事が早く終わったため、21時過ぎに、同僚女性2人と武雄温泉街にあるカラオケスナックに足を運んだ。
1時間ほどで店を出た後、彼女は「知っている人がよく来る店があるから、もう一軒行こう」と誘ったものの、同僚女性が電車の時間があるからと断ったため、22時過ぎに解散。
その後、深夜0時過ぎになっても帰宅しない妻を心配した夫が、(実家を出ていた)長女や長男、同じ料亭で働く藤瀬さんの実姉や、一緒にスナックに出かけた同僚に電話で問い合わせたものの、誰も行方を知らない。自宅から解散場所までの約1キロを捜してもみたが、やはりどこにもいない。夫はその足で警察に捜索願を提出する。
被害者女性の夫にかかってきた「奇妙な電話」
2人目は1年5ヶ月後の1988年12月7日(水曜)に行方不明となった、杵島郡北方町在住の中島清美さん(当時50歳)。
彼女は自営業の夫との間に3人の娘がいる普通の主婦で、近所の主婦たちと5人制バレーボールのチームに所属していたが、この日、バレーの練習があるからと家族に言い残して外出したまま失踪する。
その1週間後、彼女の自宅に中年男性の声で電話がかかってきた。すでに警察には連絡済みで、録音装置を設置していた大町署の捜査員の前で、夫が受話器を取る。
「もしもし、中島です」
「奥さん、見つかったそうですね」
「えっ?」
「よかったですね」
「いったい、どこで見つかったんですか」
「焼米のほうでしょう」
「……あなたはどちらさまですか」
「あんたの知った人間だ」
ここで電話は切れたが、男性の声には佐賀弁の中に関西弁が交じっており、夫は「聞いたことがあるような、ないような声」だったという。
「焼米」という言葉は後に遺体が発見される北方町志久大峠近くにある地名の通称で、使うのは地元の人ぐらいしかいない。そのため、警察は北方町出身で、関西方面で暮らした経験のある男が電話をかけてきたと睨む。ただし、この電話が犯人からのものか、単なるいたずらかはわからなかった。
さらなる事件
年が明け元号が平成に変わって間もない1989年1月25日(水曜)、北方町に住む吉野タツ代さん(当時37歳)が姿を消す。
彼女は農業を営む夫と1年前から別居しており、当時は同町にある実家に戻り、両親、小学4年生の長男の4人で暮らしていた。
この日、吉野さんは同町にある勤務先の縫製工場を18時55分に退社し、19時15分に帰宅した。が、その5分後に彼女宛てに電話がかかってきて「友達を山内町まで送ってくる」と言い残し、19時40分ごろに車(ダイハツ・ミラ)で家を出る。
電話に出た際、「今、どけおっと?(今どこにいるの?)」と話していたことから、母親は電話の相手が知り合いだろうと特に気に留めなかったが、娘が帰宅することは二度となかった。
その後、吉野さんの車はロックされた状態で、自宅から約3キロ離れた武雄市のボウリング場の駐車場で発見される。失踪当日の夜、駐車場で彼女を見かけたというOLの証言によれば、白のトヨタ・クレスタがやって来て吉野さんを助手席に乗せ走り去ったそうだ。
吉野さん失踪から2日後の1月27日18時前、夫の運転で北方町志久大峠の山林近くをドライブしていた女性が、車を停めるよう頼んだ。仏壇に供えるのにちょうど良い花を見つけたからだ。車を降りた女性は花の枝を拾ったついでに道沿いに咲く他の花を摘む。
そのとき、崖下に何か白いものがあるのが目に入った。崖を降りその白いものに3メートルまで近づいたとき、ようやく気づいた。死体だった。
見つかった「3体の遺体」
通報を受け現場に駆けつけた警察が調べたところ、白い服を着た女性は2日前から行方不明になっている吉野さんであることが判明。
そのわずか2メートル先に上半身が腐乱状態になっている中島さんの遺体、さらにその1メートル先に白骨化した藤瀬さんの遺体が見つかった。
警察は3人が同一人物に殺されたものと断定。大町署に捜査本部を設置し本格的な調べを開始したところ、ほどなく1人の男が捜査線に浮上する。
7人目の犠牲者、吉野さんが失踪当時に親しくしていた、鹿島市(北方町の南方)の生コン会社の派遣運転手M(当時26歳)だ。
Mは1984年7月、窃盗、覚醒剤取締法違反(使用)の罪により、懲役1年6ヶ月・執行猶予3年・保護観察の有罪判決を受けた後、北方町の実家に戻り、同年12月ごろから運転手として働くようになった。が、1985年ごろから白石町や武雄市の暴力団から覚醒剤を購入、北方町の山中に停めた車の中で使用していた。
1986年9月に結婚し、北方町で母や妹とともに、妻も含めて4人で暮らし始めたものの、浮気や暴言、暴力などで家庭にはいつも不穏な空気が流れていたそうだ。
1987年10月、Mは覚醒剤使用の容疑で逮捕され、同年12月16日、懲役1年2ヶ月の実刑判決を言い渡されて服役(服役中の1988年3月に妻と離婚)。1988年9月に仮出所となり、再び実家に戻って元の運転手として働く。
吉野さんに近づいたのは同年12月の初め。自宅と同じ地域に嫁いできて以前から顔を知っていた彼女が嫁ぎ先を出て実家に帰っていることを知り、人を介して吉野さんの電話番号を入手。Mの誘いに吉野さんが乗ったことで、以後2人は男女の関係となる。
警察は「ある男」を逮捕するが…
吉野さんはMとの関係を両親に秘密にしていたが、実妹だけには打ち明けていた。後の妹の話によれば、2人が会うときは、いつもMが指定した場所に吉野さんが車で出かけた後、Mの所持する軽トラックに乗り換えラブホテルに行っていたそうだ。
また、行方不明になる数日前、吉野さんがMに「もう会わないほうが良いのでは?」と言ったところ、Mは吉野さんを崖のようなところに連れて行き、最近小城町(佐賀市に隣接する現・小城市)で起きた交通死亡事故を引き合いに出して脅されたこともあったという。
警察がMに疑惑を持った理由は他にもある。前述したように、吉野さんは1989年1月25日に家を出た後、武雄市のボウリング場の駐車場で「白のトヨタ・クレスタ」に乗り込むところを目撃されている。が、別の情報もあった。
同日20時ごろ、釣り具の製造会社経営者が同じ駐車場で「魚のウロコの模様に似た派手な飾りの付いたトラック」が駐車されているのを確かに見たというのだ。それが、Mの軽トラックだった。
こうして、警察は1989年11月に別件の覚醒剤取締法違反でMを逮捕し、山林で遺体が見つかった吉野さんを含む3人の殺害(北方事件)について任意の取り調べを行う。対してMはいったん犯行を認める上申書を書いたものの、すぐに「暴行を受けて書かされた」と否認に転じた。
その後、佐賀地裁武雄支部で覚醒剤取締法違反の罪により、懲役1年6ヶ月の判決を受け、鹿児島刑務所に服役。出所後も福岡県北九州市で包丁を振り回したり、住居侵入や窃盗容疑などで3度逮捕され、2002年には同刑務所に収監されていた。
同年6月11日、佐賀県警は獄中のM(当時39歳)から改めて事情を聞く。自供は得られなかった。が、警察は同日、吉野さん殺害容疑で逮捕・起訴する(7月2日に藤瀬さん殺害容疑で、9日に中島さん殺害容疑で再逮捕)。
事件はその後…
2002年10月22日から佐賀地裁で始まった公判で、M被告は一貫して無罪を主張した。一方、検察は犯人であることに間違いないとして死刑を求刑したが、2005年4月10日、同地裁は物証の乏しさや上申書の証拠価値の無さ(1日12時間を超える取り調べを17日間連続で行ったうえ、担当者の誘導により作成されたと認定)などを理由に無罪判決を下す。検察は即日控訴したものの、二審の福岡高裁も一審判決を支持。
検察が上告を断念したことでM被告の無罪が確定する(2007年3月19日)。
果たして、本事件の真相は何なのか。常識的に考えれば、同じ小学校の便槽で見つかった2人を殺害した者、池上千鶴子さん殺害犯、N子さん殺害犯、北方事件の犯人の計4人が事件に関与したものと推測される。
しかし、冒頭で記したとおり、犠牲者7人が失踪・死体の見つかった場所は半径20キロ圏内。時期は違えど、こんな狭いエリアで殺人事件が発生するのは同一犯の仕業としか考えられないとの見方もある。事件は今も多くの謎を残したまま宙吊りになっている。
(鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載))
