移籍1年目の張本(〈10〉)と王が組んでストレッチを行うのを、笑顔で見守る長嶋監督(右)。(1976年1月24日、多摩川グラウンドで)

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 ジャイアンツの歴史をひもとくと、川上哲治、長嶋茂雄、王貞治、松井秀喜、岡本和真ら、一時代を築いた生え抜きの名が挙がる。

 一方で常勝を半ば義務づけられたチームは、いつの時代も貪欲に補強を続けてきた。移籍組の中でも圧倒的な力を見せた選手が、9月9日に86歳で亡くなった張本勲だった。

 1973年までの9連覇は王、長嶋の「ON砲」を始め、盤石のレギュラー陣あってこそだった。しかし、主力の多くが峠を越えた74年、チームはV10を逃し、長嶋が引退。名捕手・森祇晶と遊撃の黒江透修もユニホームを脱いだ。

 翌年、チームは長嶋新監督の下、覇権奪回を目指した。しかし、エースだった堀内恒夫は、「何をやってもうまくいかないシーズンだった」と振り返った通り、10勝18敗と大きく負け越した。打線では「N」の不在により、「O」が孤立したことが大きく響き、チームは球団史上初の最下位に沈んだ。

 そこで球団は「N」に代わる存在として75年オフ、日本ハムから張本をトレードで獲得した。パ・リーグで首位打者7度、既に2435安打を積み上げていた超大物だった。

 若い頃からの盟友、王を助けるべく強打者は期待以上のバッティングを見せた。プロ18年目で初めてとなるセ・リーグでのプレーだったが、76年は打率3割5分5厘、22本塁打、93打点。長打率と出塁率を合わせたOPSは76年が.988、77年が.984と現代なら、大谷翔平(米ドジャース)に匹敵する数字を残した。

 長嶋監督の狙い通り、「OH砲」の結成により、王は復活。76年に49本塁打、123打点、打率3割2分5厘で最優秀選手(MVP)を獲得し、長嶋監督は初のリーグ制覇を果たした。

 王は長嶋が亡くなった後、共闘することのメリットについて語ったことがある。「長嶋さんがいたからこそ、僕もやれたと思います。だから、僕は長嶋さんが選手を引退した後、打てなくなった。張本君が入ってきて打てるようになった。やっぱり、一緒に戦ってくれる人がいるといないとでは、大違いです。1人は大変です。(2人なら)責任も分散しますから」

 張本は翌77年も打率3割4分8厘を残して、王をアシストし、巨人は連覇を成し遂げた。堀内は「アベレージヒッターの張本さんは出塁率が高く、足も速かった。長距離打者の王さんの前を打つ3番として最高の打者だった」と偲(しの)んだ。

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 その張本が「兄弟みたいなもの」と語っていたのが、やはりベテランになって巨人に移籍してきた大投手、金田正一だった。金田の練習法や食生活へのこだわりはONに大きな影響を与え、彼らの選手寿命を延ばしたと言われ、張本とは違った意味でチームに大きく貢献した。

 50年に国鉄(現ヤクルト)入りした金田と59年に東映(現日本ハム)に入団した張本では当初、リーグも違ったし、巨人に在籍した時期も金田が65~69年、張本が76~79年と異なった。

 だが、張本によると、グラウンド外では親しくしていた。2019年に亡くなった金田の「お別れの会」に出席した張本はこう話していた。

 「よくけんかしましたよ。『お前だけだ。俺にかかってくるのは』と、いつも言われました。初めてお会いしたのは私が新人で18の時。鹿児島のキャバレーに呼び出されて、それからのお付き合いでした。私生活で食事したり、飲んだりしたのは、野球選手では私が一番多かったんじゃないかな」

 その後にこう続けた。「びっくりするのはやっぱり記録でしょう。半世紀、100年、200年、こういうピッチャーは出てきませんよ」

 通算400勝の金田と通算3085安打の張本。日本の野球史に燦然(さんぜん)と輝く記録を打ち立てた2人が巨人でプレーした日々は、彼らの長いキャリアの一部にすぎないかもしれない。しかし、巨人軍の歴史上、2人の残した足跡は今も確かな存在感を放っている。(敬称略、編集委員 太田朋男)