「ラーメンばっかり食べちゃいけんよ」2人殺して、死刑にまでなった彼女がなぜ…《鳥取連続不審死》死刑直前の上田美由紀が残した“奇妙なラストメッセージ”
〈「このキズを残して死のうかと」腕には注射針で刻まれた“子どもの名前”が…寝技で男たちを死に追いやった【上田美由紀のその後】〉から続く
死刑判決後も「刑務官や弁護団に支えられた」と感謝を綴り、素直な一面を見せていた上田美由紀。しかし、肝心の事件について問われると途端に表情を強張らせ、一切の真相を遮断するのだった。そんな彼女が最後に記者へ言い残した“奇妙なメッセージ”とは? ノンフィクションライターの高木瑞穂氏の文庫新刊『殺め人』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目)
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上田美由紀のラストメッセージとは……。写真はイメージ ©getty
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生前に上田美由紀が残した「手記」
〈留置所は、ただ寝に帰るだけの場所でした。歩いて20歩くらいのところに取り調べ室があるのですが、(警察の)何の? と思うくらい手錠をとってハズしての日々にウンザリもしていましたし、取り調べの最中も腰とイスに紐と手錠が付いていて、苦しくてとてもこれも苦痛でした。
検察での取り調べでは、地下みたいなところから4階くらいまでの階段を、一段一段上がって下りてと、これだけでもしんどいのに、取り調べでしんどく、また、平気でお茶やコーヒーを検察官は取り調べ中に飲んでいるのに、この人たちは何?となってしまいました。一日に何回も上がって下りてと検察ではさせられ、とても苦痛で仕方がなかったのです。
取り調べで黙秘をしている間、私は検察官のネクタイの柄のヘリコプターを数えたりしていました。休日にも検察官が、逆に警察署まで何度も来るのには「うんざり」しましたし、取り調べ中に「あなたのために岡山から来てるんだよ、長期出張で。何か話して?」と何度も言われましたが、「私は呼んでない! 早く岡山に帰ったら……」と口に出しそうに何度もなりました。
止まらない脱毛--落ち武者のような姿に
何も話してない私の前でパソコンを打ちまくる音と声が、夜もずっと耳から離れませんでした。あまりのストレスのため、後半はどんどん脱毛になってしまい、鳥取刑務所に移送されるころには落武者状態になってしまいました。
私は、鳥取刑務所に移送されてから3か月近く食事をほとんど口にできませんでした。取り調べ中に「刑務所の食事は動物(※手記では伏字)のエサにもならんようなものを使ってるんだぞ」と言われ続け、この食事はダメなんだと思い込んでしまっていたのです。一生懸命担当の女性刑務官の方を始めとして、他の刑務官の方も食事や運動をススメて下さるのにもかかわらず、私は口にすることができませんでした。
でも、鳥取刑務所で初めて出された食事はいまも覚えています。午後に鳥取刑務所に到着し、(夕)からの食事でしたが、この日はひら天2枚、小松菜と油あげの煮びたしとすまし汁とヤクルト1本と麦ごはんでした。この日から3か月近く食事を口にしないので、何度も倒れ、また、熱中症でも倒れ、私は医務室に連日運ばれていました。カレンダー2か月分は軽くこえてしまうと思います。
刑務官の方々の良心的な対応と弁護人の助言で、少しずつ食べれるようになったのですが、留置所は冷たい弁当に対し拘置所は温かい食事が出るのを少しずつ知り、また、TVや本などで見てきた刑務官の方々とはまったく違っているのに、正直びっくりしたのですが、私は、鳥取刑務所では女区で、3回担当刑務官が変わりましたが、3人とも、とてもいい刑務官の先生ばかりでしたし、私はあだ名を付けて呼んでいたのですが、とても良心的な方々でしたし、他の男性刑務官の方々も良心的でした。高圧的な刑務官の人は、私は本当にほとんど見たことがありません。
感じの悪い刑務官もいたが…
1人や2人嫌だな~と思う刑務官の方もいましたが、その他の刑務官の方々の良心的な対応に、いつもその嫌な刑務官の方のことは忘れられました。
また、私は鳥取刑務所をでたことがなく、余計に刑務官の方々のいい面しかわかりません。留置所と違い、四季を感じさせてくれる食事や運動場で見れる草花に、少しずつ心がほぐれてきたのだと思います。
そして鳥取刑務所から一審の裁判員裁判を受けに行ったのですが、連日の様に続く公判にもかかわらず、早朝から他の方より早めに食事を出してくれたり、お風呂も早い時間に入らせて下さったり、本当に色々としてもらいました。裁判員裁判で、ものすごい報道関係の方々から私を守るためにカーテンを閉めたり、シーツ? みたいなので車の中を見えなくして下さり私を守ってくれましたし、私の公判中の食事も温かいまま運んでくれました。ほとんど口にすることができずに申し訳ないと思いながら残していました。
裁判員裁判は、私は毎回とても怖くて、いつも半泣き状態で出廷していました。公判スタイル(服装)を考えられたのですか? とよく聞かれましたが、私はまったく何も考えず、そもそも考えられませんでした。なので、朝準備しているときにも「また同じ服装でいいの?」と刑務官の担当の先生に言われ、あわてて着替えたこともありますし、同じ服装だったときも多々あったと思います。
私は本当に裁判員裁判が怖く、顔をどこに向けていいのかさえわかりませんでした。また、傍聴席のマスコミの人の多さにも、怖くてビクビクしていたのです。私は服のことよりも、1回1回の公判に何とか出席するのが精一杯でした。
裁判員裁判を通し、公判前(逮捕時)に、またメディアによって、さんざんあることないこと書かれた上の公判で、公平中立平等に、先入観なしに、裁判員の方は大丈夫なのだろうか? といまも私は思います。また、裁判員の方々は、なぜ公判後に記者会見を受けるのだろうとも思います。他の人の公判後のことを聞いても……。
でも、私は、私の裁判員裁判をされた裁判員の方々のことを、いまも悪くとっていません。長期間の裁判で大変であったであろうと、心から思います。その意味も込めて、一審判決直後に、無意識に「ありがとうございました」と言っていたのだと思います。私は、ほとんど覚えてなく、後で聞いたのですが……。
判決の日は、頭の中がまっ白というよりも、正直、ショックのあまり、もう何色でもなかったと思いますし、何色でもありませんでした。
松江と鳥取刑務所の差
その後、現在の松江刑務所に移送されましたが、鳥取刑務所で数年過ごしていた私は、鳥取刑務所とのあまりの違いにとまどい、びっくりしました。松江刑務所には、お昼前に着いたのですが、この日のお昼はチキンカレーとツナサラダと福神漬けとバナナと麦ごはんでしたが、この日もほとんど食べれませんでした。
松江刑務所も3人担当の刑務官の先生が代わりましたが、ここでの3人の担当の刑務官の先生も、とてもスバラシイと思います。
1代目の担当の刑務官の先生には、またカラに閉じこもろうとしていた私を、何とか日々を一日一日を大切に過ごせる様にと色々お世話になったり、控訴審や民事やその他で落ち込んでいるときも、どんなときも支え見守ってもらいましたし、どんなときでも、いつもと変わらない態度で接して下さり、私はどれだけ救われたか? わかりません。
私が兄のように親しくさせて頂いていたあるTV局のジャーナリストの訃報が届いたときに、本来、大声を出したりしてはダメなのですが、私とそのジャーナリストとのやり取りを知っているので、号泣し続けている私をそっとしておいてくれました。そして「あなたの心の中でIさんは生き続けているよ」と言ってくれた言葉に、私はどれだけ救われたでしょうか? とことん落ち込んでしまっている私に一生懸命に伝えてくれました。
2代目の担当の刑務官の先生は、書ききれないくらい、とても私は心から落ちつける刑務官の担当の先生でした。どんな悲しいときも、苦しいときも、辛いときも、この2代目の担当の先生の魔法の言葉一つひとつに、私は和ませてもらいましたし、どんなときも、若い刑務官の方なのですが、びっくりするくらいの言葉で伝えてくれて、私は今日まで来れています。感謝の言葉しか1代目と2代目の担当の先生には思い浮かびません。
3代目担当の先生も若いですが、サッパリしていて、私は助かっています。3人の担当さんに鳥取刑務所と松江刑務所で共通して言えるのは、高圧的な刑務官及び悪い刑務官の方々を、私はほとんど知らないということです。拘禁者の方々からお手紙をもらっても??? となるばかりです。私は刑務官で高圧的な方や悪い人を見たことがありませんので……。〉
子どもたち、裁判員、支援者への感謝を私らしく伝えたい
前述の通り、上田美由紀は殺人について無罪を主張したが、一審、二審では有罪認定がなされた。手記には、子どもたちと裁判員、支援者などへの感謝の気持ちも綴られていた。
〈私には、4年近く文通をしている、私を見守って下さっている(東京在住の)方がいます。この方のおかげで本当に助かっていて、本来の私でそのまま手紙をやり取りさせて頂いて、私のもう一人の東京の父です。この東京の父には、娘としてみたいに接してもらっていて、お互い日々の出来事を話せていますし、とても東京のお父さんには涙々で伝えたいことがありすぎて……。
私は5人の子どもたちのおかげで、今日まで何とか頑張って来れました。5人の子どもたちと、いまは亡き父と母と兄に、ありがとう、と感謝を伝えたく思います。
5人の子どもたち、天国の亡き父と、母と兄と東京のお父さんと天国のIさん、ありがとう!! 心から感謝でいます。
私は、いま上告審中です。いま、この手記を書いているときは、上告審がどうなっているのか? 全然わかりませんが、でも、上告審弁護団の弁護人の先生方を、私は一審の弁護団と同じくらい? いやそれ以上かもしれませんが、とても信頼し、そしてとても心から信じています。
「次に会うときは太っててよ」
東京から1か月に何度、面会に来て下さったでしょうか? 私の控訴審での悔しさも、しっかりと受け止めて下さり、日々多忙で弁護団の先生方がお疲れでヘトヘトだと思うのに、いつも私のことを心配して下さったり、私の弱音や泣き言も聞いて下さったり、私が数十キロやせたときはとても心配して下さったり、「次に会うときは太っててよ」との言葉をかけて下さったりで、少しづつ体重も元に戻ってきましたが、上告弁護団の弁護人の先生方と、松江刑務所の刑務官の担当の先生方、他の刑務官の方々や色々な方々が心配して下さったりしたおかげだと思います。
上告審について不安も多々ありますが、私は上告弁護団の先生方を信じ、信頼している私がとても大きいです。そして、この手記を通して、色々な意味でお世話になった、お世話になった方々に感謝を伝えたく思い、書かせて頂きました。
今後、いまのところ、どうなるのか? わかりませんが、この8年近くで、私は多くの人と出会いと別れを体験しました。そのなかには、とても嬉しかったこと、立ち直れないほど辛く悲しかったこと、笑ったこと泣いたことも色々経験させてもらった8年だったと思います。良いことも悪いことも悲しいことも、全て含めてありがとうを皆さんに、私らしく伝えさせて頂きました。
最後まで読んで下さりありがとうございました。皆様に感謝します。心からありがとうございます。〉
事件については一切語られていない手記はいわば、来る結審が思い通りにならないかもしれないという心像のようなものなのだろうか。そうした覚悟を感じさせる上田美由紀に、「これからどう過ごすのか」を聞くと、「いろいろやりたいことがありますけど……、いまは言えません」
上田美由紀は強張った面持ちでそう答えた。夜は眠れていますか、こう聞くと、「あまり……。でも、拘置所の規則があるので布団には入っています」
夜、上田美由紀はどんな夢を見て結審までの日々を過ごしていたのだろうか。
主文、被告を死刑に処す--。上田美由紀にとっては最後の望みであったはずの最高裁の審理は、1カ月に満たない間に結審した。
西の毒婦、最後の肉声
松江拘置所。判決後、再び、上田美由紀に面会した。彼女はペパーミントグリーンのTシャツに茶色の短パン姿で現れた。切羽詰まった感じはなく、以前と様子は変わらない。ときおり笑顔をすら覗かせる。
上田美由紀は最高裁に対し判決訂正の申し立てを行なっており、このときその審議が行われていた。あと数日もすれば、結論が出る--。
判決訂正の申し立ては、判決文の誤字や脱字を訂正してもらうために行う手続きで、死刑判決が覆ることはほとんどない。そのため、最高裁の判決をもって“事実上〞の死刑確定となるのだが、身分は未決のままだ。
ひいてはこの申し立てが棄却されると未決から確定死刑囚となる。そして、こうした面会は、その時点で原則として親族や弁護士以外には許されず、再審でも認められない限り生の声を聞く機会は失われてしまう。もう時間はない。上田美由紀との面会はこれが最後になるかもしれないのだ。
そこで友人記者と手分けして面会を重ねた。現状が、もうどうすることもできない寄るべなさのなか、上田美由紀は何を語るのか。以下は、それを一つにまとめたものである。
「8年経ってもわけがわからない」
--判決後、何か変わりましたか?
「一切、変わってないです。弁護士さんを信じています」
--食事はどんなものを?
「今日はパンの日、って言うんですか(笑)。パンと、かぼちゃのおぼろ煮、フルーツヨーグルトとチーズ、コーヒーが出ました」
--ちゃんと食べれていますか?
「あんまり……」
最高裁の判決が出てからは、いままで以上に食欲がないという。
--心境は?
「わからない。表現ができない状態で、いま、私は自分の気持ちがわからない。で、なんか、ただ、判決の翌日以降に、友人や弁護団から励まされました。励まされたというか、弁護団が支えてくれてますので、それでちょっとありがたいと。で、いま、自分がどういう気持ちというのが表現できない状態ですね。なんか、もう早かったな、いろいろあって、急展開で。いま、毎日が、一日一日が大切なので、時間を無駄にすることのないように過ごしています」
--早かったというのは、いつから?
「弁論から判決までも早かったような感じがします」
--それは最高裁が始まってからのことですか?
「ていうか、これまでの8年間がなんか走馬灯のように思い出されるというか。8年経ってもわけがわからない」
--では判決後は、どんなことをして過ごされていますか?
「支援者に手紙を返したり、一度読んだ本を読み返したり、とにかく、ぼーっとする時間をなくそうと思っています」
--最近のお気に入りの本は?
「感動しました」
「弟と呼べるほどの支援者からさし入れてもらった『深夜特急』(沢木耕太郎著)と、『砂時計』(芦原妃名子著)ですね」
--面白いですか?
「感動しました」
そう言うと、はにかんだ笑顔を見せた。
そのはにかんだ笑顔の下には何があるのか。上田美由紀が最近のお気に入りだという少女漫画『砂時計』。舞台は山陰、島根県だ。その県庁所在地、松江市の郊外に構えられた松江刑務所が、彼女の現在の“棲家〞だ。おそらく、いま自分が置かれている状況と、漫画の舞台を重ねたのだろう。
--この8年間を振り返ると?
「ただ、もう早かったな、いろいろあって、急展開で」
--8年経たれても、自分のなかでまだ事件と向き合えていない、という……。
「なんか、いま、自分がどう考えているかを表現できないというか。本当に表現できないんです。これは正直な気持ちです。だからこの8年間の訴訟(裁判)を含めて、ちょっとわからない。どう説明していいのかがわからない」
--事件の真相は違う?
「それはお答えできません」
--やはり、いまの状況に、納得はいっていない。
「それはちょっと弁護人に……。弁護団と一緒に戦っていく、考えていきます」
おきまりのフレーズ
これまで何度も同じ質問を繰り返してきたとはいえ、事件の話になると毎度のごとくピシャリと遮断するのは、なぜだろう。それはお答えできません。それはちょっと弁護人に……。これらのフレーズが毎回出てくる。
思えば、いつも彼女は冷ややかに笑いながら言うのだった。「やっていない」とも言わないのは、事件についての発言を避けるよう弁護士に言われていることも大きな要因かもしれないが、その表情は、このときばかりは毒婦のオーラを纏っているように思えた。
どうすれば事件について語るのだろう。そこで直接的な質問ではなく、内容を迂回させて聞いた。
--最高裁の判決を初めてきいたときはどんなことを思ったか覚えていますか?
「覚えてますよ。びっくりしました。わからなかった、なにがなんだかわからなかった」
--びっくりしたこと以外に覚えていることはありますか? その日のこととか。
「びっくりしたというより、何て言ったらいいんだろう? うーん、どうしたらいいんだろうとか、どうしたらいいんだろうと。わからない。わからなかったです。パニックになっていたというか」
--その日から、以前と後では、何か変わりましたか?
「だから、そこがわからないんです」
--わからないからいまも以前と変わらず、ということですか?
「変わらずに、という言葉がわからず……。私は変化する人じゃないんで。ギャアギャア喚く人ではないんで」
--では、これまでの8年間で得たものや成長した部分は?
「得たものは、刑務官に支えてもらったのもあるし、いい弁護団にも出会いました。もちろん支援者の方々にも。多くの方に支えてもらいました」
--内面で変わった部分は?
「刑務官に対しても素直になれるようになりました。もともとは素直じゃなかったというわけではないんですけども、弁護人にはもちろん、刑務官にも自分の気持ちを伝えられるように」
世間に言いたいことは…
--世間に対してなど、なにかおっしゃりたいことはありますか?
「いや、あの、よく聞かれるけど、わかんない」
--とくに無い?
「よくわからない。というか、怖い、怖いです。怖いイメージしかないです。週刊誌に書かれたことが事実じゃなかったりとかで、これまで怖い思いをしたので」
--世間が怖い?
「世間というか、わからない。なんか、なんかね……」
「犯人性の話ではない」と前置きして、言った。
--こうして上田さんの声に耳を傾ける一方で、被害者の方々の声も聞かなくてはなりません。上田さんの知っている方たちが亡くなっていて、いまもその遺族の方たちは真実を知りたいとおっしゃっています。そこで、真実を知りたいとする方たちに何か言えることはありますか?
「ああ……。うーん、それはお答えできません」
--今後の生活と過ごし方で、思われることは?
「弁護団がついています。弁護団と弟(支援者の1人)を信じます」
--弁護団と支援者は裏切れない。
「裏切る……。裏切るってどういうことですか?」
--投げ出したりは、しない。
「してないじゃない」
--今後も弁護団と支援者を信用して、戦っていく。
「弁護団と支援者を信用してます」
--その決意を、最後に。
「わからなーい。それは弁護士に聞いたほうがいいと思います」
--いや、上田さんの言葉として。
「弁護士に全て任せているので、私は。弁護団が引き続きやってくださります」
--弁護団を信じてついていく。というか、一緒にやっていく。
「そうですね。今後も私の考えを伝えていきたい。とにかく、本当の私を知ってもらいたいのです」
記者に残した「奇妙なメッセージ」
手記でも面会でも、上田美由紀は事件について一切語らなかった。「本当の私を知ってもらいたい」と言いながら、本当に語るべきことには口を閉ざしたまま、上田美由紀は判決訂正の申し立てをした結論を待つ--。
面会終了を知らせるタイマーが鳴った。静かに立ち上がった上田美由紀は、コクリと会釈をして背を向け一歩、二歩と面会室の扉に向かって歩き出した。
そのとき、不意にこちら側をもう一度振り返り発した言葉が、「西の毒婦」と呼ばれた上田美由紀の、最後の肉声だった。
「夜遅いからってラーメンばっかり食べちゃいけんよ」
いつも帰宅が遅いため、家の近くのラーメン屋で食事を済ませることが多いと零していた友人記者に対しての気遣いだったことに驚いた。どんな思いで言葉にしたのだろう。
2人を殺めた罪に問われた被告としての顔と、赤の他人の食生活を息子のようにして気遣う顔。なんど反芻してもこんがらがった。
そして--。その数時間後、件の判決訂正の申し立てが棄却され、上田美由紀は確定死刑囚となった。
彼女の最期
2023年1月14日。上田美由紀は収容先の広島拘置所で死亡した。遺書などはない。食べ物を詰まらせたことによる窒息死だった。
このとき上田美由紀は高血圧などで投薬治療を受けていた。健康状態は相当悪化していたようだ。
最後の晩餐は、自ら購入したピーナツやキャラメル--食欲がないと漏らしていた上田美由紀は、果たしてどんな思いでそれらを口にしたのか。その心中を聞く術も、事件の真相を知る術も、もう永遠にない。
(高木 瑞穂/Webオリジナル(外部転載))
