「なぜお父さんは死んでくれなかったの」妻と娘は涙ながらに…八橋9人殺傷事件・エリート郵便局長が陥った“2500万円の借金”と一族の確執
〈わずか20分で親族9人を殺傷…「おとなしい人間だった」66歳の元郵便局長はなぜ凶行に走ったのか?〈1926年・八橋事件〉〉から続く
今からちょうど100年前の1926(大正15)年、昭和への代替わり直前の10月。鳥取県の小さな町で、66歳の退職郵便局長が拳銃3丁を乱射し、親族ら9人を殺傷する事件が起きた。積もり積もった根深い恨みに金が絡み、感情を爆発させての犯行だった。
【実際の写真】9人を殺傷…元郵便局長だった中井國太郎
何が彼を凶暴な大量殺傷に走らせたのか--。文中、当時の新聞記事などに現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。記事などは見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。(全4回の2回目)
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「(親族の)彼らを皆殺しにしてやる」
10月17日、ピストル3丁で親戚らの家を襲った犯人・中井國太郎は、その場で逮捕された。10月20日付山陰新聞(山陰)朝刊には「留置場で高いびき 大膽(胆)な犯人國太郎」の記事が。
「17日夜、八橋署に留置されたが、西川署長の取り調べ後、大胆にもいびきをかいて熟睡。18日早朝、鳥取地方裁判所の近田予審判事、児玉検事の厳しい調べに対して、惨劇を演じた犯人とは思えないほど落ち着きはらい、差し入れ弁当もペロリと平らげた。平気で犯行や原因などを詳しく話し、凶器であるピストルと弾丸の買い入れなどについては言葉を濁しているので、19日も引き続き取り調べを行う」。
さらに「酒を飲むと、『(親族の)彼らを皆殺しにしてやる』と口走っていたという」と書いた。

「留置場で高いびき」の記事(山陰新聞)
中井國太郎の経歴などは当時の警察の上部機関、内務省警保局が1928年に刊行した『捜査實(実)例集』が詳しい。
〈 八橋町で醤油製造販売業を営む一方、小作料が年約60俵入るほどの、町では有力者の1人だった。家族は3人で女中を使い、中流以上の生活で、家庭は極めて円満。國太郎は系統的な教育は受けていなかったが、八橋町に郵便取扱所ができた明治31(1898)年ごろから事務取扱を務め、明治35(1902)年6月には八橋郵便局長を命じられた。大正14(1925)年には多年勤続の功績で従七位勲八等に叙せられた。
元来素行はいい方だったが、性質偏狭で頑固一徹。しかも猜疑心が強いので、親族、近隣などとの折り合いがうまくいかなかった。〉
郵政省(当時)編『郵政百年史』(1971年)には「1871(明治4)年、大蔵省(当時)は郵便取扱人を地方人から採用し、準官吏として高い社会的地位を名目的に与えることとし」たとある。郵便事業を始めた前島密の考えだったという。地方請負郵便取扱機関は「三等郵便局」(現特定郵便局)と呼ばれ、局長は自宅を局舎に提供。報酬は手当しか出なかったものの、町長らと同格の名誉職だったとされる。
一方、元々地方の名士や素封家(名望家)が選ばれたという指摘もある。八橋町は戦後、合併で東伯町になるが(その後、現在の琴浦町に)、『東伯町誌』(1968年)によれば、國太郎は八橋郵便局が業務を開始した1898年6月28日に局長に就任している。
複雑だった親族関係
犯行の動機の1つとされた親族との対立について各紙はそれぞれ報じたが、『鳥取県警察史第1巻』は次のようにまとめている。(文中の仮名を実名に変換。以後も同様)
〈 國太郎は郵便局長のかたわら米相場に手を出して、一時は大もうけしたこともあった。しかし、大正に入って米相場に大きな変動があり、そのために大損をして、多額の借金を抱え込んでしまった。落ち目になると、周りの人たちが自分を嘲笑しているように感じられ、普段は何事もなく交際していた人たちとも次第に疎遠になり、ささいなことに腹を立て、いがみ合うことが多くなり、今回の事件もそうしたことが遠因になっていたと思われる。〉
親族関係はかなり複雑で、内容は資料や新聞によって微妙に違う。『捜査實例集』の記述を引く。
〈1.國太郎は本家筋に当たる中井家から妻やえをめとっており、やえの死亡した妹の男児2人を養育していた。やえと中井光蔵の妻のぶは姉妹で、その2人はのぶにとっても甥に当たることから、養育費は光蔵が負担していた。1925年10月ごろ、國太郎はその養育費を受け取ると、出入りの米屋の店員に米代を支払った。ところが、店員がその金を横領したので、店主が國太郎に請求した。これを聞いた光蔵は「自分の方からは養育費を間違いなく渡しているのに、米代も払わないとは太いやつだ」と近所に吹聴したといううわさがあった。國太郎はそれを伝え聞いて光蔵に対して非常に憤慨していた。
2.同年春ごろ、郵便局に為替の金を受け取りに来た客があったが、渡す現金が足りなかったので、國太郎は局員に光蔵に金を借りに行かせた。光蔵にも現金がなかったので、町内の知人から借りて國太郎に渡した。その後、光蔵や中井熊太郎らが「局長が為替の金を支払えなかったのは、公金を横領して遣ってしまったからだ」と近所中に吹聴したと言って、國太郎は光蔵、熊太郎を恨んでいた。
3.中井熊太郎は酒造業を営んで相当に財産も築き、信用もあるが、元は八橋村(当時)の書記。國太郎は自分が資本を貸して酒造業を始めさせ、今日の地位を得たのに、その恩義を忘れてことごとに自分に反対するのは不都合だと言って熊太郎を憎んでいた。
4.また、國太郎は1926年5~6月ごろ、郵便局長辞任に当たって、当時名古屋の保険会社に勤めていた長男を後任の局長に推薦していた。ところが、熊太郎をはじめ、町の有力者らはそれに反対。有力者の1人の長男を推した。國太郎の長男が辞退したため、その通りになったことから熊太郎らを恨んでいた。〉
1922年出版の『山陰實業興信録』には、中井熊太郎が「中井酒造場店主」のほか「麺類商」「八橋自動車株式会社重役」として掲載されている。國太郎の後任の郵便局長になった人物の父親も「酒造業」と「八橋自動車株式会社重役」として載っている。また、『東伯町誌』によれば、中井熊太郎は1902(明治35)年、短期間だが町長に就任しており、事業に成功した町の有力者だったことが分かる。
〈5.中井為次郎は以前は國太郎と親密に交際しており、親戚の男を郵便局事務員として勤務させていたが、1926年春ごろ、俸給のことから國太郎は男を解雇した。為次郎は近所の者に「親戚が辞めたのは、局長に不正があるからだ」と吹聴したと言って、國太郎は為次郎に憤慨していた。
6.錦織正之丞は近くに住んでいるのに、近来何事にも國太郎に反対すると言って、互いに反目していた。〉
『捜査實例集』の記述もあくまで國太郎の供述に基づいており、全てが事実といえるかどうか分からない。初公判で國太郎は「錦織とは政党的に反対の立場に至り、私が町会議員に立候補した時も常に反対派の運動をしていたので、あまりピッタリしなかった」と述べている(1927年6月30日付松陽)。
大門正克「名望家秩序の変貌 転形期における農村社会」=『シリーズ日本近現代史 構造と変動3(現代社会への転形)』(1993年)所収=によれば、普通選挙法に先立つ1921(大正10)年の町村制改正と翌年の新農会法制定で、帝国議会(当時)や県会より前に、普通選挙に近い方式が町村レベルに導入され、1921年と事件の前年1925年に全国で町村会議員選挙が行われた。
「なぜお父さんは死んでくれなかったの」
一方、中央政界の「政友対憲政」の対立は地方にも波及。鳥取県議会は事件の年の1926年、大荒れに荒れて乱闘まで起きていた。八橋町でも政治的な対立が深刻化していたと考えられる。その結果、國太郎は町議選に落選。そのことも國太郎の鬱屈と憤懣に輪をかけたのだろう。
10月20日付の因伯は、記者が國太郎の家を訪問。妻や娘らが涙ながらにこもごも語った言葉を記している。
〈 何ともご迷惑をかけたご親戚の方や社会に対して申し訳がありません。私たちは生きている心地がありません。なぜお父さんは死んでくれなかったのでしょう。こんな大それたことをするようならば、これまでに自分で死んでくれなかったのか……。
世間ではいろいろ言われているでしょうが、「西中井」(中井光蔵方)とは始終厚い交際もし、最近までも、のぶが度々家に来て食事を共にしたり、こちらからも行ったりしていた。いろいろ親切にしてもらうぐらいだから、何の恨みや鬱憤がありましょう。
局長を他に譲ったからと言われるかもしれませんが、つい2~3日前まで、國太郎は「引き継ぎが済めば、これから俺も楽隠居できるから」と喜んでいたくらい。こんなことがあろうとは思われず、いまさら申し開きをするのではありませんが、どうした気の狂いからこんなご迷惑をかけたのか。始終そばにいた私たちにも実際理解することができないのです。〉
家族としてもこれが正直な心境だったのかもしれない。本家筋の光蔵家は「西中井」と呼ばれ、「地方に聞こえた名門」(『東伯町誌』)。分家筋の國太郎の家は「東中井」と呼ばれていた。10月22日付鳥取は八橋出張から鳥取に戻った予審担当の児島検事の話を「八橋町大慘劇の遠因 東西両中井派多年の暗闘」の見出しでこう書いた。
「2500万円」にものぼる負債を抱えて
〈 中井家一同は東中井派と西中井派に分かれて多年確執を続けており、國太郎の東中井派は光蔵、熊太郎、為次郎らを恨んでいる。根底はなかなか深く、西中井派の3人が物質的に成功し、東中井派の旗頭である國太郎が零落している点から、そこに何か暗示するものがあるようだ。
國太郎は相場に失敗し、醤油醸造も思わしくなく、負債が6000円(現在の約990万円)と5000円(同約820万円)の二口で計1万1000円(同約1800万円)ある。利子を足すと約1万5000円(同約2500万円)になり、整理できない状態だった。郵便局長後任問題が動機の1つであるように言う者もあるが、決してそんなことはなく、あれは國太郎の長男の妻が芸者で、八橋のような町では暮らせぬと反対したので、長男の方から断ったのが真相だ。〉
そうした背景に犯行に結び付く経過が加わる。『鳥取県警察史第1巻』を見よう。
〈 國太郎は借金の返済に窮して、妻(やえ)の実家の異母兄の援助を受けようとしたが、異母兄夫婦が継母(やえの実母)に対する仕打ちが悪いことから不仲になってしまった。やがて異母兄が病死。親族の1人が養子になって家督を継いだ。彼と國太郎は懇意だったので、國太郎は借金整理の援助を求め養子も承諾していた。
しかし、養子は病弱で余命いくばくもないことを悟り、妹の中井のぶの息子を養子にして家督を譲るつもりでいたが、その途中で病死してしまった。中井本家の実権は中井ますが握っていて、ますは予定通り、のぶの息子を養子に迎えたが、幼少のため、家督は養子の父でのぶの夫である光蔵に継がせることにした。光蔵と國太郎は日頃から不仲だったので、借金整理のもくろみもダメになり、返済の目途は全く立たなくなってしまった。このため、ますと光蔵に対する國太郎の憎しみは深くなるばかりだった。
このような状況の中、國太郎は本家に当たる中井ますと光蔵から借金の返済を求められ、熊太郎、とら、為次郎らからは郵便局で不正があったように言われた。多額の借金の支払いにも窮して、長年務めた郵便局長も辞職せざるを得なくなった。せめて後任には自分の息子をと考えたが、結局それもうまくいかず、それも光蔵や錦織らの画策によるものと邪推した國太郎は、借金返済が行き詰まって自暴自棄となり、自分に仇(あだ)する中井ます、光蔵、熊太郎、為次郎、錦織を皆殺しにすることをひそかに計画していた。〉
こうして大量殺人計画は動き始めた。(つづく)
〈「1発! 2発!」隣家へ侵入し無言で乱射…拳銃3丁で「親族ら9人殺傷」元エリート男性(66)が凶行に及んだ“惨劇の一夜”〉へ続く
(小池 新)
