「過剰」ともいえるコンプラ社会

写真拡大

【全2回(前編/後編)の前編】

 俳優の佐藤二朗と橋本愛のトラブルは、改めてコンプライアンスの“重圧”を知るきっかけになったのではあるまいか。悪気があろうとなかろうと、誰もが突然“加害者”にされかねない社会。加速し続けるコンプラ事情の最前線から、あるべき生き方を探る。

 ***

【画像】「どうなってるオラ!」 タクシー大手「東京エムケイ」オーナーによる凄絶パワハラの“決定的瞬間” 一部始終を画像で見る

 地域密着型で、患者からの信頼が厚いその歯科医院は、職場環境もアットホームだった。従業員同士の付き合いも深く、スタッフの誕生月にパーティーを開くのが恒例になっていた。

 あるとき新しい女性スタッフを雇うことになった。しばらくしてこのスタッフの誕生会を開こうとすると、彼女は「誕生会は結構です」と院長に言った。ほかのスタッフに年齢を知られるのがイヤだとし、「エイジハラスメントにあたるこうした催しを奨励するのはおかしい」と院長を批判した。ちなみに、エイハラとは年齢を理由にした差別や嫌がらせのことである。

「過剰」ともいえるコンプラ社会

“本人がイヤなら”と、院長は当然引き下がった。だが、彼女は続けて「ほかのスタッフの誕生会もやってはいけない」と、驚愕(きょうがく)の主張に及んだ。そうした会に自分は行かないが、自分が行かないパーティーがあると疎外感を覚える、これはパワハラだ、というのがその理由だった。アットホームだった歯科医院の雰囲気は次第に殺伐とし、以後、この女性スタッフが退職するまで、誕生会が開かれることはなかった……。

しっかり対応しないと「セカハラ」に

 本来は〈法令遵守〉を意味するコンプライアンスが近年、現代社会の“支配者”として君臨しているかに感じる向きも多いだろう。実際、職場や学校など、あらゆる組織が日常的にコンプラと向き合っているはずである。とりわけ、コンプラ違反の“代表選手”たるハラスメント行為は、たちまち糾弾の対象となる。

「歯科医院の例で主張される“誕生会がエイハラ”というのは、ピンとこないですよね」

 そう語るのは、当の歯科医院から相談を受けた社労士の野崎大輔氏である。

「むしろ女性スタッフの主張こそ、なんでもないことを“ハラスメントだ”と訴えるハラスメント、つまり“ハラハラ”に該当するように思います。しかしどんなに非常識な訴えであっても、企業のコンプライアンス部門や人事・総務の担当者はきちんと話を聞かないといけません。しっかり対応しないと今度は“セカンドハラスメントだ”と言われかねないからです」(同)

 セカハラは二次的なハラスメント被害を指す。

「“通報”があった以上は、いかに常識の範囲内の行動であっても、当事者には“気を付けて”と伝えなければならない。多くの人はこれで萎縮してしまい、それまで円滑だった周囲とのコミュニケーションを取りにくくなる、ということが珍しくありません」(同)

「〈奥様〉という言葉を使わないようにシステム変更を……」

 現実に何が起こっているのか、さる大手サービス企業の関係者に実態を明かしてもらおう。

「例えば、男性上司が女性部下と一対一で打ち合わせをする場合には、正面ではなく斜めに向かい合って座ることが推奨されています。正面だと“威圧的に感じる”という理由らしいですが、正面はダメだけど斜めなら安心、などと思ってる人が本当にいるのか疑問です」

 大手広告会社の関係者が後を継ぐ。

「アンケートでそれまで使っていた〈奥様〉という表記を一切使わなくなりました。“家の奥に妻を閉じ込めている意の差別的表現だ”と攻撃されないようにするためです。代わりに〈妻〉で統一することになりましたが、そのためのシステム変更は結構大がかりでした」

 このように、言葉の言い換えも定番になっている。

「〈ママにうれしいキッチン〉もNG。“家事は母親だけが担うべきだという価値観を押し付けている”というわけです。〈人気の学区〉もダメ。そこ以外の学区を見下しているように感じる人がいるかもしれませんからね」(同)

 そう苦笑するのである。

「管理職が部下に馬鹿丁寧なコメントをするように」

 業務で欠かせないメールに関して、独自ルールを定める会社もある。さる大手企業の関係者が言う。

「社内ガイドラインで〈メッセージを送る際にはカレンダーを見て相手の業務時間を確認した上で、その時間内に送信するように〉と推奨されています。〈業務時間外に回答を求めてはならず、質問する場合は『回答は翌日の業務時間内で構いません』と一言添える〉とも決められていますね」

 驚くべきことに、これは社内メールについての取り決めなのである。

「違反すると、“業務時間外にメールを送ることは許されているのでしょうか?”といったクレームのメールを人事部に入れる人もいます」(同)

 どちらかといえば“旧弊”なイメージがつきまとうマスコミ業界でも、対策には抜かりがない。さる出版社関係者が言う。

「社員の書いた文章を別の人がチェックして、“ここは違うのでこうした方がいい”“なんでこれを書いたの?”などと、ストレートなコメントを付けて返すのが元の社風でした。ところが、これに耐えられないという新入社員が入ってきた。その人は“先輩社員の言い方がキツ過ぎる。大変なダメージを受けました”と訴えたみたいです」

 すぐに対策が講じられた。

「管理職から部下に“人の文章に対するコメントには気を付けるように”とお達しがありました。相手を否定しないよう“ここの表現はちょっと分かりにくいので気になりましたが、いかがでしょう?”と、馬鹿丁寧にコメントしなさいってことでしょうね」(同)

 一体、どこからがハラスメントなのか。答えのない難問を前に茫然と立ちつくした挙句、コンプラの専門家を社員として招聘(しょうへい)する企業もある。そこでどんなことが起こったか。

“タバコ吸いました? スメハラになるので気を付けてください”

 前出の野崎氏が語る。

「ある女性をコンプラ専任社員として雇った企業は、当初“プロ”を頼もしく思ったそうです。が、間もなくその女性は非常に細かいことまでハラスメント認定するようになりました」

 彼女はハラスメント研修でこんな“講義”をした。

「女性の部下を直視するのはセクハラになりかねないとくぎを刺した上で、“どうしても見つめる場合は3秒以内にしてください”と指導していました」(同)

 もちろん、研修ではない時間も目を光らせている。

「15分前に喫煙所でタバコを1本吸っただけの男性社員に“タバコ吸いました? スメハラになるので気を付けてください”と注意していたそうです」(同)

 スメル(におい)ハラスメントというわけだ。

 やがて、思いがけない怒濤の展開を迎えることに。

「これでは仕事にならないということで、当の女性社員に対する苦情が出るようになった。そこで人事部長が“ちょっと厳し過ぎやしないかという声もあるので、少しお手柔らかに頼むよ”とやんわり言いました。すると女性は“問題を隠蔽(いんぺい)するつもりですか!”と激怒。人事部長の発言をただちにパワハラ認定し、顛末書を社長に提出、すべての管理職対象の会議が開かれる事態に至りました」(同)

「仕事を教えるということ自体が本質的には現在やっていることを否定する行為」

 なぜこんなことになってしまうのだろうか。

 企業の危機管理に詳しい山内洋嗣弁護士が解説する。

「最近はオーバーコンプライアンス、つまりコンプライアンスの過剰対応による弊害が増えてきているように思います。現在の30代後半~60代は、上の世代からパワハラを受けてきた世代です。自分の若い頃の常識のまま部下を指導すると、ハラスメントとして訴えられてしまうジレンマに陥っています」

 つまり、参考になる指導法がないわけである。

「これだけコンプラ違反が問題視される状況では、部下に強く言えない、強く言えないから部下が動いてくれない……という状態に頭を抱える中間管理職の人たちがたくさんいます」(同)

 思い当たるフシもあろう。

「どんなに言い方に気を付けても、仕事を教えるということ自体が本質的には現在やっていることを否定する行為です。いま20点の人に50点の仕事をしてもらえるよう指導することは、20点の状態を否定することになる。それを自覚している管理職は、指導や指示に際して過度に萎縮してしまいがちです」(同)

「出身地を尋ねるのもNG」

 一方で“通報”の件数が増えているのも事実。2020年と25年に公益通報者保護法が改正されたのも一役買っているという。

「法改正により、内部通報制度の体制整備や通報者の保護が強化されました。これに伴い、企業の内部通報は指数関数的に増えています。ある企業では、今年の上半期だけで去年1年分の内部通報がありました。もちろん法令違反や不正を通報しやすい体制を築き、企業の自浄作用を促す、という本来の目的に適った通報もあります」(山内氏)

 しかし“誤用”も多く、

「上司から意に沿わない指示を受けた部下が“パワハラだ”と通報するケースが増えている。例えば、ある顧客の担当を任されたものの、その顧客と肌が合わなかった場合に“苦手な客を押し付けられた”となるのです。下積み業務を指示された若手が“単純作業ばかりでパワハラだ”と主張することもあります」(同)

 こんな事案が増えていれば、恐ろしくて指示など出せなくなるのも無理はない。おまけに、告発されかねないのは指示や指導に限ったことではないのである。

 野崎氏によれば、

「近年は、社内でプライベートの話をするハードルが高くなっています。ある大手企業では、人事部の通達により、正社員が派遣社員に住所や年齢、結婚歴、学歴、職歴などを尋ねることが一切禁止になったそうです。住所といっても現在の最寄り駅だけでなく、出身地を尋ねる程度の会話もNGなのです」

 想像するだけで息が詰まりそうだが、まだまだある。

「ある中小企業で、50代の男性社員が40代の女性社員に何の気もなく“子供さんは元気ですか?”と聞いたところ、ハラスメント発言だとして新設されたばかりのコンプラ係に駆け込まれてしまった。女性はひたすら“個の侵害だ”と訴えていたそうですが、担当者も困り果てていましたね」(同)

 やることなすこと、すべてがハラスメントになってしまうのではないか……。実例を知れば知るほど、そう思ってしまっても不思議はない。こうした社会をどのように捉え、いかにして生き抜けばいいのか。

 後編では、ここまでコンプラ社会が加速した要因と、こうした社会の「生き抜き方」について、専門家の声を紹介する。

「週刊新潮」2026年9月3日号 掲載