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 俳優の仲野太賀(33)が主演を務めるNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」(日曜後8・00)は6日、第34話「最強のライバル」が放送され、徳川家康の苦難に満ちた前半生をフィーチャーした。豊臣家を題材にした30年ぶりの“豊臣大河”として異色の“家康回”。制作統括の松川博敬チーフ・プロデューサーに狙いを聞いた。

 <※以下、ネタバレ有>

 NHK連続テレビ小説「おちょやん」などの八津弘幸氏がオリジナル脚本を手掛ける大河ドラマ通算65作目。“天下一の補佐役”豊臣秀長を主人公に、豊臣兄弟の絆と奇跡の下克上を描く。兄・豊臣秀吉役は俳優の池松壮亮が演じる。

 第34話は、自ら政治を操るようになった羽柴秀吉(池松壮亮)は、その権威の象徴として絢爛豪華な大坂城を築城。諸国の有力大名があいさつに訪れる中、徳川家康松下洸平)だけは関東平定を理由に姿を現さない。羽柴小一郎(仲野太賀)の懸念通り、織田信雄(山脇辰哉)が家康に接近。打倒秀吉を持ち掛ける。誘いを断る家康だったが、脳裏にはかつて今川家の人質だった頃の苦境、そして信長の命により妻子を処刑した苦渋の決断がよぎり…という展開。

 伊勢・長島城。家康は信雄の誘いに乗らない。信雄が「この腰抜けめ!」と罵ると、信雄の重臣・津川雄光(早瀬栄之丞)は「これで殿も、頭を冷やされることでございましょう」と家康に感謝。雄光は“ひょっとこ踊り”を披露し、信雄の気を晴らした。

 帰り際、石川数正(迫田孝也)は「よくぞ耐えられました」。家康は「すべてはわしとおまえの、志のためじゃ」。ふと庭の小鳥を見つけると、苦難に満ちた前半生がよみがえる。

 天文16年(1547年)3月、駿府・今川館。竹千代(のちの家康)は竜王丸(のちの今川氏真)から剣術の稽古という名の折檻。松平家家臣・数正が竜王丸を制止し、竹千代には爪を噛む癖をやめるよう忠告。駿河国主・今川義元(大鶴義丹)は竹千代に小鳥を与えた。

 天文24年(1555年)3月、竹千代は元服し、松平元信(初名)(松下洸平)に。義元は元信が大切にしてきた小鳥を殺すよう命じた。元信には不可能。飛び立った鳥を今川家嫡男・今川氏真(三河悠冴)が銃殺した。

 元信は涙し、爪を噛む。石川数正(迫田孝也)は「奪われたくなければ、奪う側になるしかありませぬ。従うのが嫌なら、従わせねばなりませぬ。今はまだその時でなくとも、いつの日にか、あなた様が武家の頂に立つのです」--。

 そして家康の嫡男・松平信康と正妻・築山殿が武田と内通したと、織田信長(小栗旬)から処刑の命が下る。家康は従った。

 茶会。小一郎と秀吉は、家康の子を養子に迎えたいと要請。家康は「出会った頃のそなたらは、何を考えておるのかさっぱり分からなくてのう。わしは恐ろしかったんじゃ。それが今はどうだ。そなたらのやろうとしていることが手に取るように分かる。そなたら、分かりやすくなったのう」と強烈な皮肉を放ちながら、承諾した。

 しかし、徳川家嫡男・長丸(のちの徳川秀忠)が毒草を摘み「これで、父上を泣かせた敵を殺してくだされ」と訴え。家康は「もうよい。もうよいのじゃ。もう誰にも従わぬ。あとは、この父がやる!」と翻意した。

 信雄と家康が面会した情報が秀吉に流れたとし、信雄は雄光を尋問。雄光は裏切りを否定したが、信雄は「また気を晴らしてくれんか」とお面を渡し、背後から騙し討ち。奥に控えていたのは家康。家康は「よき、お覚悟でござる」と不敵な笑みを浮かべた。秀吉も、信雄の背後に家康がいることに気づいた。

 数正「いかがです?奪う側となられたご気分は」

 家康「もっと高揚するかと思うたが、それほどでもない」

 酒井忠次(天野ひろゆき)本多忠勝(夏生大湖)榊原康政(栗原類)井伊直政(阿久津仁愛)の「徳川四天王」も揃い踏み。家康は「これより、織田信雄様の意を受け、逆臣羽柴秀吉を討伐する。今こそ、その時じゃ!」--。

 数正との約束から耐えに耐えた、雌伏の時は約29年。ついに家康が立ち上がり、言葉とは裏腹に高揚した。

 SNS上には「松下洸平劇場」「徳川四天王キター!」「青年期と中年期の演じ分け。まさに松下洸平の真骨頂」「徳川四天王の登場が完全に戦隊ヒーロー。カッコよくて震えた」「徳川を応援したくなってきた」などの声が続出。大きな反響を呼んだ。

 次回は13日、第35話「秀長誕生」。羽柴VS織田・徳川の決戦「小牧・長久手の戦い」(天正12年・1584年)が描かれる。

 松川CPは「このドラマの飄々としたあの家康が、果たして熱くなり、秀吉との全面戦争に打って出ることがあるのか。ここは家康が大決戦に挑む過程を丁寧に描く必要があると考えました。家康が主人公になる回は、豊臣大河としては非常に異色」と意図を説明。

 第27回「本能寺の変」(7月12日)。安土饗応における織田信長(小栗旬)毒殺未遂事件の後、家康は「わしは妻と子を手にかけてまで生き残ったんじゃ。こんなことで台無しにはせん」と「築山殿・信康事件」(天正7年・1579年)の“一端”を口にしたが「今川へ人質に出された幼少期から、家康の前半生は不遇の連続。今回の家康は“諦観の人生の中で我慢を重ねてきたからこそ、こういうひねくれたキャラクターになったんだな”“雌伏の時を経て、いよいよ羽柴打倒に立ち上がるんだな”と大変納得のいく第34回になっています」と手応えを示した。