15歳で芸能界に入り、デビュー30周年を迎えた女優・酒井若菜(45)。キャリアの出発点はグラビアアイドルだったが、それは演技などのオーディションに全部落ち、唯一受かったのがグラビアだったからだという。

【写真】グラビアアイドルとして大人気になりながら女優に転身、45歳になった酒井若菜さん 

「10代はずっと泣いていた」と振り返る苦しい時代について本人に話を聞いた。


酒井若菜さん ©文藝春秋 撮影・橋本篤

--15歳で芸能界に入った時は女優志望で、グラビアアイドルは「自分から最も遠いジャンル」と感じていたそうですね。

酒井若菜(以下、酒井) もともとグラビアアイドルになりたかったわけじゃなくて、むしろ肌の露出とか女性性をアピールするのが苦手なタイプでした。なのでグラビアは自分の性質にはいちばん合っていないジャンルだと思ってましたね。

--それなのに、なぜグラビアの仕事を始められたんですか。

酒井 15歳でこの世界に入ったものの仕事が全くなくて、毎日オーディションを受けに栃木の実家から東京まで自費で通う日々でした。俳優じゃなくてもモデルや歌、ダンスもアクションもエンターテインメントの枠に入るものであれば何でもオーディションを受けたんですけど、全部落ちました。そのなかで唯一受かったのが、グラビアだったんです。

--オーディションに落ち続けて、ようやくつかんだ仕事だった。

酒井 そうですね。とにかくどんなものでもいいから1つでも仕事がしたい一心でグラビアをやってみたら、思いのほか評価してもらえて仕事が増えていきました。

銀座の公園でチェックの水着を着せられて滑り台で…

--いちばん最初の撮影のことは覚えていますか。

酒井 銀座の歌舞伎座の横にあるちっちゃい公園で、チェックの水着を着せられて、スニーカーで滑り台を滑るっていう4分の1ページぐらいのカットでした。

--なかなか特殊な状況ですね。どう感じたか、覚えていますか。

酒井 「どんなシチュエーション?」って感じて、すごくカオスな世界に入ってしまったな、と。でもそれ以上に、やっともらえた仕事なので嬉しかったです。

--そこからグラビアアイドルとして一気に人気が出ていきますが、すぐに適応できたのでしょうか。

酒井 まだ10代だったしおとなしい性格だったので、大人との会話ができなくて、撮影でもなかなかニコニコできませんでした。

--売れっ子になっていくなかで、生活も変わっていったのでは?

酒井 東京にいる時間はほとんどなくあちこち飛び回ってましたね。沖縄ロケが終わって羽田に帰ってきたと思ったらすぐに海外。帰ってきて2日間だけバラエティをやって、スーツケースの荷物を詰め替えたら2週間海外へ、みたいな日々でした。

--自分が雑誌の表紙になったりするのはどんな気分だったのでしょう。

酒井 当時は事務所からのプレッシャーもあって感覚がズレてた部分もあると思うんですけど、コンビニに行って自分が表紙の雑誌を数えてました。4冊くらい表紙があるのが当たり前で、1冊だけの時は「ああ、終わった……」くらいに落ち込んで。今考えるとおかしいんですけど、それほど切羽詰まっていました。

「マネージャーにめちゃめちゃ怒られた」ベリーショート事件

--グラビアアイドル活動の時期で、印象に残っている出来事はありますか。

酒井 18歳の時のファースト写真集の撮影ですね。それまで髪はセミロングだったんですけど、海外ロケの前日にマネージャーにも誰にも言わず勝手にベリーショートにしちゃったんです。

 出発日の朝に空港に集合したら私が短髪になっていたのでマネージャーにめちゃめちゃ怒られました。

--確かに写真集のイメージなどもありそうです。

酒井 当時の私は、仕事が決まった後に勝手に髪を短くしちゃダメという業界のルールをそもそも知らなかったんです。

--なぜ急にベリーショートにしようと思ったんですか。

酒井 当時のグラビアアイドルって、胸が大きくて髪が長い、いかにも「女性」な人ばかりだったんです。だったら誰もやってないことをやろうと。男の子みたいな髪型にした方が埋もれないんじゃないかと思って切りました。

--戦略的なベリーショートだったんですね。

酒井 それが結果的に当たったんです。ファースト写真集がヒットしたのはショートカットだったからと言われていて、普通のセミロングだったらそれなりには売れてもあんなに何万部も売れることはなかったと思います。

 それが原体験になったので、「業界の常識」みたいなことに捉われない考え方を大事にするようになりました。

--怖いもの知らずだった?

酒井 何かやるときは清水の舞台から飛び降りるぐらいの恐怖心があります。でも「行け!」って思ったら飛べるタイプみたいで、何も気にせず突き進むというよりは、怖い怖いと思いながらも「飛ばなきゃ」と思って飛ぶ。度胸はあるタイプだと思いますね。

--成功の戦略を立てるくらいにはグラビアの仕事を好きになっていったのですか?

酒井 それはほとんど変わらなかったですね。悩みを話せる友達もいなくてどんどん閉じこもっていきました。大きな胸がコンプレックスだったので、毎日水着を着て肌を見せる仕事に「私は何をやってるんだろう」と、よく泣いていました。

--それでも3年間ほど、まさに最前線で活動されていました。

酒井 10代はずっと泣いていましたけど、芸能界を辞めるという選択肢はありませんでした。絶対に女優になると決めていたので。

グラビアのヒエラルキーは低かった

--20歳くらいから実際にドラマのお仕事が増え、『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャッツアイ』などに出演しています。

酒井 当時の流れとしては、まずグラビアのトップになるとバラエティに出る権利をもらえて、そしてバラエティタレントとして名を上げたら、やっと女優に参加できるチケットをもらえる、という感じでした。そのステップを飛ばしてグラビアからいきなり女優になった人は私以外にいなかったので、かなりイレギュラーな存在だったと思います。

--普通なら長い道のりだったんですね。

酒井 90年代後半から2000年代前半はグラビア全盛期と言われますけど、グラビアという職業は芸能界のヒエラルキー的には低いところに位置していたんです。

 当時はバラエティのひな壇に「グラドル枠」が1席だけありました。でも1席しかないので、その席のために争いが行われるわけで。それが私はすごく嫌でした。

--どういう戦いがあったんですか?

酒井 グラドル同士の暴露とか、不思議ちゃんぶらなきゃいけないとか、ヤンキーエピソードを捏造するとか、そういうのって本人たちも本当に苦しいんですよ。仲のよかった女優志望のグラドルの子たちがどんどん辞めていった時期があって「女優になりたいけどバラエティでうまく立ち回れない」という悩みを何度も聞きました。辞めちゃう子たちは繊細だから、芝居をしたらうまい子が多かったんです。その子たちが女優のチケットをもらう前に去っていく姿を見てられませんでした。

--酒井さんはどうやってバラエティをスキップしたんですか?

酒井 がんばってバラエティにトライしてた時期もあるんですよ。やらずにスキップしたわけではなく、やった上で自分の道を切り開かなければいけないと思ったんです。バラエティをうまくできないけど、女優になる道は諦めたくない。じゃあ私なりにやるしかないと覚悟を決めました。

「あいつだけとっとと女優になってずるい」「俳優なめんなよ」

--実際に道を切り開く過程は大変でしたか?

酒井 当時は風当たりが強かったです。

 バラエティに出てるグラドルの子からは「あいつだけとっとと女優になってずるい」と言われ、俳優の方には「俳優なめんなよ」と言われる。周りに味方がいないしんどい状況が数年間は続きました。

--そういう時、何で自分を支えていたんですか。

酒井 特に支えてくれたものはなかったですね。とにかく道を作りたいというだけ。その道を切り開かなければ私自身も芸能界に残れないことは明白だったので、四面楚歌、背水の陣という感じでした。

--その戦いは報われましたか?

酒井 あれから20年ほど経ちましたが、最近、グラビア出身の同世代の女優たちと共演すると、「私たちが女優っていう肩書きを持てるようになったのは、若菜ちゃんが作ってくれた道があるからだよ」って言ってもらえるんです。そのたびに「報われた」って思えます。

「あ、今なった」19歳で2つ、32歳で3つめの難病を発症…酒井若菜(45)を襲った“全身が動かない恐怖”と、周囲の「嘘つき」という勘違い〉へ続く

(二瓶 仁志)