SNSを先取りしていた「週刊新潮」の名物連載「掲示板」…谷崎潤一郎、湯川秀樹、若尾文子の“苦情”や“探し物”も掲載 「人間の頭蓋骨」を探し求めた人物とは?
週刊新潮で、創刊号(1956年2月19日号)以来、いまでもつづく長期連載に《掲示板》がある(当初題《週刊新潮掲示板》)。毎回、各界著名人が4人登場し、直近の仕事のPRをかねて、探し物を尋ねたり、さまざまな情報を求めたりする欄だ。
【写真を見る】「ナイフを持って庭に忍び込まないで」…「週刊新潮」の「掲示板」に苦情を寄せた大女優の往年の姿
たとえばかつて、女優・熊谷真実さんは〈ドラマ『マー姉ちゃん』で使いたいため、昭和14年以前に出版された菊池寛の初版本を売っていただけませんか〉、女優・八千草薫さんは〈竹細工師の祖父・松田鉄太郎の著書をお持ちの方がいらしたら拝見させてください〉、評論家・大宅壮一氏は〈書類整理の手伝いを募集〉等々、意外な素顔が知れる点でも、ユニークな欄である。

だが、上記のような「探し物」が中心になったのは、ずっとあとのこと。連載開始当初は、かなりちがった内容の欄だった。さっそく、1956年の創刊当初にタイムスリップしてみると……
「ナイフを持って庭に忍び込まないでほしい」
まず、開始当初は、登場人数が桁違いに多い。上記のように、現在は1回に4人が原則だが、第1回は、1ページに、なんと「15人」もが登場しているのだ。第2回は「17人」。以後、毎回10〜15人が登場する。もちろん、活字の大きさや行間などは今よりずっと小さかった。顔写真も全員ではなく、主な人が4人程度しか載ってない。文字分量も人によって大小の差がある。それにしても、たいへんな数である。
週刊新潮OBのA氏(68歳)は若いころ、創刊時代を知る先輩から、こんな話を聞いたことがあるという――「有名人に取材で会いに行ったら、必ず《掲示板》用のネタも一緒に聞いてこいと、さかんにいわれたもんだよ。探し物に限らず、なんでもいいから面白いコトバを取ってこい、と」。
そういえば、当初の顔ぶれを見ると、大半は、連載中の作家か、記事中に登場した著名人である。そしてもう一つ、当初の特徴は、上記にあるように、内容が「探し物」に限らなかった点だ。では、いったい、当初の《掲示板》は、どんな内容だったのか。
なんと当初は“苦情”が多かったのである。現に、創刊号《掲示板》第1回のトップに登場したのは……。
〈谷崎潤一郎(作家) 訪問客にわずらわされるのが困る。前もって連絡した上で来るならいいんだが突然来られるのは、予定が狂うので一番迷惑する。わたしは電話ですむ用は電話ですます方針なんだが、相手の方ではそうもいかないらしい。アイサツに顔を出すという風習は、わたしには迷惑だ。〉
谷崎潤一郎(1886〜1965)は、創刊号から小説『鴨東綺譚』を連載していた(モデル女性からの抗議で、6回で中断)。おそらく担当編集者が、原稿を受け取りに行ったついでに聞いたのだろう。その次に並んで登場した人も…‥。
〈麻生和子(麻生太賀吉氏夫人) よく知らない新聞、雑誌が、毎月たくさん送ってこられるので大弱りです。お断りのハガキを一回出したくらいでは何とも反応がありません。ひどいのになると、その料金を請求に来られます。どうか新聞雑誌は間に合っていますから、よろしく御辞退いたします。〉
いうまでもないが、麻生和子さん(1915〜1996)は、吉田茂首相の三女で、現自民党副総裁・元総理、麻生太郎氏の母親である。第1回には、さらにもう一人、“苦情”を述べている人がいる。
〈湯川秀樹(物理学者) 日本はジャーナリズムがうるさ過ぎる。専門外のことでも、わたしの興味のあることについて意見を求められることはよいが、全く関心のない事柄についてシツコク意見を求められるのには困る。また外電が入ったからといって、その事件について感想を、などと夜中に電話をかけてくることが多い。外電は夜中に入ることが多いのは、よく承知しているが、時間を選んで電話して欲しい。家内はこれにはいつも困っている。〉
湯川秀樹博士(1907〜1981)は、1949年に日本人として初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した人である。その後は、こんな切実な“苦情”も登場した。
〈若尾文子(女優) ファンの皆様に一言。真夜中に突然来訪され、結婚を申し込まれたり、私に会うために切り出しナイフを持って庭に忍び込んだりするような脅迫だけは、ご遠慮ください。また、女優を夢見て、私の家の女中を希望される方が大勢いらっしゃいますが、時間的にも不規則で、大変な労働ですから、ファンの方のご志望は一切お断りしております。〉
「人間の頭蓋骨、お譲りします」
その後も“苦情”は多い。尾崎士郎(作家)は、自宅の表札を3回もとられたので〈どうかとらないで欲しい〉。坪田譲治(作家)は、戦時中、鈴木三重吉全集第7巻を、時計やペンと一緒に盗まれたので〈時計やペンはいいから、この本だけ返してほしい〉。片山哲(社会党議員)は、藤沢〜新橋間の通勤でぐっすり眠るのが習慣なので〈乗り合わせた方に一言ごあいさつをしておきたい。電車の中ではこのならわし通りによく眠らせてください。言葉をかわさないで失礼することもご容赦ください〉。
田中澄江(シナリオ作家)は、日本電信電話公社(現NTT)へのお願いとして……
〈仕事中だとか、休養したいと思うとき、いつ電話がかかるかと、私は、電話ノイローゼに悩まされております。それで、交換手さんに「これから3時間、私のところにかかった電話をつながないでください。そして用件をメモしておいてください」と、そんなお願いをしたいのですが、いかがでしょうか。是非ご検討ください。〉
このころ、田中澄江さんは、『夜の河』(吉村公三郎監督)や、『流れる』(成瀬巳喜男監督)といった名作シナリオを続々書いて、大忙しの時期だった。もし現在のようなスマホやメール時代だったら、どんなにラクだったことだろう。
もちろんこのほか、本来の「探し物」「募集」も多い。特に初期に多いのが家探しだ。檀一雄(作家)は〈アパートを欲す。一家13人、イヌ、ネコ、トリ、5匹とも移りたし〉、浅丘ルリ子(女優)は〈100万円以下で青山付近の静かな所にお家が欲しいのですが、小さくてもいいけどすてきなお家。家族六人です〉、左幸子(女優)は〈家を求む。都心にも日活撮影所にも便利な地域。予算は200万円前後〉、芦川いづみ(女優)は〈渋谷あたりの交通至便な所に大きなお家が欲しいんです。川崎から調布の撮影所まで通うのがとてもつらい。家族五人とも引越したいのです〉。
当時の女優が、広い家を求めて親孝行している様子がうかがえる。ちなみに、一般的な木造アパート(6畳一間)の平均家賃は2000円前後の時代である。給与水準で比較すると、当時の100万円は、現在では約2000万円に相当する。
さて、この《掲示板》の特徴は、「探し物」について、読者から寄せられた、具体的な返事や情報が載るところにある。「ご返事」が初めて載ったのは、第5回目(1956年3月18日号)。どんな「探し物」だったのかというと、第3回目に載った、これである。
〈式場隆三郎(医学博士) ゴッホの傑作といわれる「向日葵」が、大正7年に日本に来ているが、今度の大戦で戦災のために焼けたという説と、焼け残ったという説とがあって、真偽のほどがわからない。どなたか確実なる情報をお教えくださった方には、謝礼をさし上げたいと思っている。一報を期待する。〉
式場隆三郎博士(1898〜1965)は、医師であると同時に、ゴッホ研究家・蒐集家でもあり、評伝や研究書も多く上梓していた。で、その返事は、
〈式場隆三郎様へ――お尋ねのゴッホの傑作「向日葵」についてお答えいたします。実は私の父、山本顧弥太が武者小路(実篤)先生のお世話にて大正7年ごろ入手いたし、ずっと芦屋の自宅にありましたが、残念ながら昭和20年8月6日、当地方最後の空襲にて焼けてしまいました。父は重要文化財を無くしましたことを、相すまなく痛切に責任を感じ、悔やんでおります。詳しくは武者小路先生にお問い合わせくださいますれば、おわかりと存じます。神戸市東灘区(略) M・S〉(本文は実名)
山本顧弥太氏(1886〜1963)は大実業家で、武者小路実篤ら白樺派の支援者。なんと、その娘さんからの返事だった。いまでは、この「芦屋のひまわり」の悲運は有名な話で、アニメ映画「名探偵コナン 業火の向日葵」のネタにもなっている。だが、このころは行方について諸説あったのが、この《掲示板》でのやりとりで、確定したようである。
この第5回目には、もうひとつ、すごい「ご返事」が載っている。
〈勅使河原蒼風様へ――ご希望の人間の頭蓋骨、私の手もとにありますから、お譲り申し上げます〉
現在のSNSだった《掲示板》
「人間の頭蓋骨」……なぜ、そんなものを探しているのかというと、
〈勅使河原蒼風(前衛生け花作家) 牛、馬の頭蓋骨は持っているが、人間の頭蓋骨をどなたかお持ちの方はお譲りください。作品の素材として用いたいのですが、ついでにできれば、手の指先の部分もお持ちの方がありましたらお知らせ願いたい。昔のモノでコケの生えているのが欲しいのです。〉
雑誌の誌上で「人間の頭蓋骨が欲しい」と呼びかけるのもすごいが、すぐにOKの返事が来るのも驚きだ。いったい、どういう人からの返事かというと、
〈これは昭和14年、男鹿半島大謀網にかかり上がった無縁仏にて、完全無欠の立派な現物で、浮上した日を命日として、私、毎月命日に供養回向しております。秋田県(略)M寺住職 K・G〉(本文は実名)
「大謀網」(だいぼうあみ)とは、男鹿半島特有の伝統的な大型定置網の漁法。主に真鯛を一網打尽に捕獲するものだが、そのなかに“水死体”があったということらしい。こういう独特の用語や風習が述べられるのも「ご返事」欄の特徴だった。
さらにこの「ご返事」欄には、また別の面白さがあった。返事に対する返事――つまり、「その返事は間違い」という訂正の指摘が、時折あるのだ。
たとえば、吉田健一(作家、英文学家)が、
〈お酒求む。銘柄「勇駒」。昭和29年、河上徹太郎と一緒に佐渡で飲んだこの酒の味が忘れられないので広告します〉
すると、2週後に秋田の人からの返事が載り、〈「勇駒」は元禄年間より当地方の銘柄です〉と、送付の手配をする旨が書かれていた。だがまた2週後、今度は、その返事に対して、
〈吉田健一氏へ――5月1日号の返事にはご不満のことと思います。あなたのおっしゃる「勇駒」は、佐渡郡……氏の造る酒と思います。多分、文春の講演会に来てお泊りの際に飲まれたものかと思います。新潟県佐渡郡(略) K・T〉(本文は実名)
と、“訂正”が入っている。
現在のような、ネットやマスメディアの発達していない時代、毎週の《掲示板》に載る「声」のやりとりは、現在のSNS、まさに「X」(旧Twitter)であった。本年で創刊70年を迎えた週刊新潮で、創刊号から現在まで、ほぼそのままのスタイルでつづいている唯一の連載である。
※引用した記事本文は、主旨を変えない範囲で、一部省略や表記の訂正をしています。
森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。
デイリー新潮編集部
