「男はつらいよ」シリーズでブッチ切り1位の人気を誇る“誰もが納得のマドンナ女優”といえば? 寅さんを生きた「渥美清さん」が役者の道に進んだのは“補導”がきっかけだった
“寅さん”が、大学の入試問題に出たことがある。問いはこうだ。
〈寅さんはなぜ新幹線に乗らないのか〉(1990年、広島大学教育学部教育学科論文問題)
出題者の意図として後日、「競争社会の中では落ちこぼれかもしれない寅さんは、いつも皆と仲良くしたがっている。そのことに受験生たちに気づいて欲しかった」と公表された。一方で、寅さんの叔父”おいちゃん“役を長く演じた下條正巳のこんな見解もある。
「渥美ちゃんが亡くなってから知ったことの方が多いんです」(※1)
映画「男はつらいよ」シリーズで寅さん(車寅次郎)を演じた渥美清は、1996年8月に逝去。今年で没後30年になる。現在でも、渥美清イコール寅さんという見方が大勢を占めているだろう。しかし、上記の試験問題にあるように、全方位に気さくだった寅さんに対し、それを演じる渥美清の実像は、おいちゃんが語るように、とにかく秘密主義だった。秘められた逸話を紐解き、その素顔に迫りたい。(文中敬称略。役職名は当時)
補導がきっかけで、役者の道へ
渥美清は1928年、東京・台東区の生まれ(※2)。父は新聞記者だが閑職が続き、元教諭の母が内職の封筒貼りをして家計を支えていた。幼い渥美は窮乏に泣き、欠食児童であった。小学校では昼の弁当が用意出来ず、学校から玄米のオニギリを貰っていた。もっとも近所の上野でテキ屋をよく目の当たりにしていたせいか、弁舌は巧みでクラスの人気も高く、同窓会では、こう自慢していたという。

「俺はおそらく東京の給食第1号だ。凄いだろう?」
しかし、年を経るに連れて生活は荒れ、酒、ばくちに明け暮れるように。喧嘩沙汰も起こし、警察の世話にもなる。その何度目かに言われた。
「お前の顏は、一度見たら忘れない。指名手配されたらすぐパクられるぞ。同じ顔を売るなら、役者にでもなったらどうだ?」
この言葉がきっかけで、軽演劇の世界へ。最初は下働きだったが、特徴的な四角い顔に細い目、そして口才と勘の良さを買われ、浅草を中心に舞台に出るように。喜劇役者として爆笑を呼び、すぐに頭角を現した。この時期によく舞台でかけていた、こちらも後の有名コメディアン、由利徹との「スキー合宿」というネタは以下である。
吹雪に遭うという設定で、由利が渥美にウドン粉を浴びせて、
「こらっ、目を開けろ!」
「いえ、もう開けてます!」
“親友”、「徹子の部屋」出演も一回のみ
1969年、映画「男はつらいよ」が当たり、以降は国民的俳優になるわけだが、そんな中でも、下積み時代の仲間は大切にした。渥美と浅草でお笑いトリオ「スリーポケッツ」を結成していた関敬六はその1人で、「男はつらいよ」の第1、2作、そして第26作から渥美主演で最後の作となる48作までは全て出演。ほぼチョイ役だったが、そんな関の舞台での掴みは以下だった。
「私は、日本一有名な映画シリーズ『男はつらいよ』に毎回出ています。しかし、どこに出ているかは、よく観ないとわかりません(笑)」
同じく、「スリーポケッツ」の一員の谷幹一に、後年、渥美が呟いた言葉は衝撃的だ。
〈「売れてきてから寄って来るのは友達じゃない」〉(「読売新聞」1999年8月31日付)
公私をしっかりと分けていた。例えば、名が知られてきてから、こんなことがあったという。ある女優に「会いたい」と言われて会った。すると翌月、その模様がある雑誌で、「渥美清がお見合い」という記事になっていたという。“風天”の俳号で俳句もたしなんだ渥美の作品に、以下がある。
「芸は身を 助くるほどの ふ幸せ」
「うれしくて やがて悲しき 道化かな」
黒柳徹子とは親友同士で、毎年正月に「男はつらいよ」の新作が封切られると、一緒に観に行くほどの仲だった。それゆえ、結婚の可能性も含めマスコミに騒がれることもあった。その時の渥美の黒柳へのボヤキは振るっていた。
「顔が私で、声があなたの子どもが出来たらどうするんですか!?(笑)」
その実、渥美は黒柳の頭の良さを買っており、だからこそ、(今では“若手芸人殺し”として有名な)黒柳がどこで笑うのかを観察していたフシがあった。それほどの信頼がありながら、渥美が「徹子の部屋」に出たのは1回のみ。その理由を渥美本人が黒柳にこう語ったという。
「私より面白いことを話す人は、いっぱいいるじゃありませんか。それにもし、私が真面目に話すと、『なんだ、寅さんて、演じている人は面白くないんだな』となる。もし寅さんより、僕のトークが面白いのなら、それはそれで問題だしね」
役のイメージからも、演じる本人は表に出るべきではないと固辞していたのである。そしてその姿勢は、家族にも透徹された。ある年の寅さん映画の後、黒柳と渥美が一緒にタクシーに乗り、渥美を、自宅近くという目黒区の路上の角で降ろそうとした時だ。5メートルほど先に、見知らぬ女性が立っていた。
「なんか、変な人いるから、今は降りない方がいいわ」(黒柳)
「そうですね」(渥美)
しばらくして戻ると、その女性はいなかったので、黒柳は安心して渥美を降ろした。その女性が、渥美の帰りを待っていた妻だと黒柳が知ったのは、渥美の死後だったという。
アフリカでは偉人!?
「お兄ちゃん、これが官邸よ」
寅さんの妹、さくら役の倍賞千恵子の一言である。渥美は死後、国民栄誉賞を受賞。それを代理として官邸まで受け取りに来たのが「男はつらいよ」の出演者、スタッフの面々だった。「寅さんが生きていたら、受賞をどう言うか?」との報道陣に、倍賞はウィットたっぷりに答えた。
「嬉しいんだけど、照れ臭いから、『お前、代わりに行って来てくれよ』と言われて、やっぱり私が受け取っていたと思います(笑)」
ところで寅さんと言えば、海外でも大人気。1983年には「男はつらいよ」が、「世界最長の映画シリーズ(作品数)」(当時)としてギネス登録。1988年にはアメリカの有名誌「タイム」の表紙に車寅次郎として登場している。
1996年、訃報が入ると、米誌「ニューズウィーク」が渥美を「アジアのチャップリンだった」と掲載(8月19日号)。オーストリア・ウィーンのヘルムート・チルク前市長は「大変な悲しみ」と談話。同前市長は、訪日経験30回以上の親日家で、大の寅さんファン。1989年には、市長の座にあった彼の働きかけでウィーンを舞台にシリーズ唯一の海外ロケとなった「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」が完成。同前市長も、ちゃっかり出演している。「欧米にあった、寝ないで働く日本人というイメージを変えた人。ウィーンっ子と同じく、寅さんは人生を楽しむことに重きを置いていた」と同前市長はコメントしていた(※拙訳)。なお、没後は、「同一俳優主演による、最多製作映画シリーズ(48作)」として、「男はつらいよ」がまたもギネス登録されている。
では、渥美清自身と海外は、結び付きがあるのだろうか?
これが大アリで、渥美の一番の息抜きは「アフリカに行くこと」だったという。きっかけは1965年、渥美がドキュメンタリー映画を得意としていた羽仁進監督に、「一緒に仕事をしませんか?」と持ち掛けたこと。自分の新境地を開こうとする前向きさを羽仁監督は感じたという。
そこで、腹案として持っていたアフリカでの撮影を羽仁が打診すると、渥美も快諾。日本の気のいい商社マン(渥美)が現地人(ほとんど素人)と協力しながら仕事を進める映画「ブワナ・トシの歌」が完成し、望外の大ヒットとなった。以降、渥美は、アフリカの手つかずの自然や素のままの人々が気に入ってしまったようで、何度も自費で渡航。時には雑誌に旅行記を寄稿し、テレビのアフリカ特番にも名乗りをあげ、その現地リポーターを務めている。
ところで、その「ブワナ・トシの歌」の撮影の時だ。羽仁監督が現地(タンザニア)の部族に挨拶に行った。すると、なぜか部族の皆は監督の前を素通りし、一緒にいた渥美に先ず挨拶をした。「やはり主演俳優ならではの風格や威光を、自然に感じたのかな?」。羽仁監督はそう思ったという。
撮影は順調に進み、部族の皆が、踊りを披露してくれた。その時、羽仁監督は、彼らが渥美をもてなす意味がわかったという。彼らが、神の化身として被る仮面は、四角く、目の穴が細く空いていた。渥美とウリ2つだったのだ。
現実のマドンナは?
さて、寅さんと言えば、相手役のマドンナにも、ファンの注目が集まるところ。若尾文子、吉永小百合、岸恵子、松坂慶子etc.。それはそのまま、日本の女優史と言って良い。中でも浅丘ルリ子演じる踊り子・リリーは、渥美存命中の48作中、4作に渡りマドンナとして出演。これは歴代最多記録である。2014年、「男はつらいよ」HPでマドンナの人気投票をしたところ、浅丘ルリ子がブッチ切りで1位だった。同時に投票者のコメントには、「寅さんと最後に結ばれて欲しかった」という意見が続出。2人が出会った作品でもある「男はつらいよ 寅次郎 忘れな草」がシリーズ屈指の人気を誇っているのも頷けよう。余談だが、同作で2人は結ばれないわけだが、忘れな草の花言葉は、「私を忘れないで」「真実の友情」である。
さて、渥美清の現実のマドンナについては1969年3月、婚姻時に明らかになった。お相手の正子夫人は24歳。渥美はこの時41歳で、17歳差の夫婦だった。2人が出会ったのは10年前。つまりその時、正子さんは14歳だった。正子さんの父が渥美を贔屓にしていたことから家族ぐるみの付き合いがあった。しかし、あくまで年の離れた兄と妹のような感じで、1年に一度、神奈川県茅ケ崎市に住む正子さんを、東京見物に連れて行ってやるくらいだった。ところが、理想のタイプを渥美が聞いた時、渥美としては、「いいのがいたら、見つけてやろう」という気持ちだったが、返答は予想だにしないものだった。
〈「できればあたしも両親もよく知ってる人……」
「そんなのいるのか?」
「うん……たとえば渥美ちゃんみたいな……」〉(「ヤングレディ」1969年3月24日号)
渥美は本気にしなかったが、正子さんが二十歳を越えた時、(そういえば昔、動物園に連れて行く約束したな)と、久々に会う時に打診すると、答えはこう返って来た。
〈もう動物園なんて行ってられないわ、もうお嫁に行かなければならない(年齢)〉(「週刊平凡」1969年3月20日)
ここで初めて渥美も異性として意識し、4年後の結婚に至ったのだった。
亡くなる時、渥美は夫人と、2人の子どもに言った。
「いいか、全て骨と灰になってから皆さまにお知らせしろ」
公私を分けて来た渥美の美学だった。彼の自宅の場所も、子どもの顔も、以降の葬儀で初めて知ったという関係者ばかりだった。
しかし、夫人に関しては、数年に1度、その姿が人づてに報じられることがある。それは例えば、芸人時代の仲間が墓参りに行くと、夫人が先客として手を合わせていた姿。渥美の息子も後年インタビューで、「久々に実家に帰ったら、母が遺影に話しかけていた」と語る。渥美に惚れ抜いていたのだった。2008年、寅さんの故郷である柴又のある葛飾区で倍賞千恵子がコンサートをおこなった時もかけつけ、楽屋で倍賞とともに、涙を流している。
そして、浅丘ルリ子がコンサートに出た際も、訪れた。楽屋でこう言ったという。
「お会いしたかったです。寅さんもあなたに見込まれるような男で、本当に良かった……」
そういって涙を流し、用意して来た花束を渡した。
それは、忘れな草だった。
※1:日本テレビ系「知ってるつもり?!」1998年9月6日放送分より。
※2:当時の地名で言えば、東京府東京市下谷区。
瑞 佐富郎
愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。当HPでの執筆等、プロレス&格闘技ライターとしての活動が中心で、著者も多数上梓しているが、元々は大島渚の片腕として知られた有名脚本家・田村孟に師事しており、映画、文学への造詣も深い。映画関連の執筆仕事として、「勝新伝説」 (宝島社)などがある。
デイリー新潮編集部
