【高校野球】「早実OBの王だけど、監督、おめでとう」 世界の王貞治から届いた留守電に涙...和泉実が明かす初めての甲子園
名将たちの甲子園初出場物語
和泉実(後編)
和泉実の母校である早稲田実業(以下、早実)は、荒木大輔が在籍した1980年から82年にかけて春夏5季連続で甲子園に出場したが、その後は1988年春の選抜に出場したが、かつての勢いは影を潜めていた。

1996年、監督として初めて甲子園に出場した早実・和泉実監督 photo by Nikkan sports
そんななか、思いもよらない出来事が起きた。
1992年3月、27年間にわたって早実を率いてきた和田明が急逝。チームは、和田を手伝っていた大学生を急きょ監督として登録し、春季大会を乗りきったが、その一方で後任監督の人選が進められていた。
「5月頃だったかな。いろいろ会議があったんだろうね。それで候補が僕に一本化されて、幹事長がわざわざ山口まで来て、島田(亮彦)社長や学校にも話をしてくれた。南陽工も『そういうことなら』と、僕が早実に戻ることを了承してくれたんです」
もちろん、和泉は会議の内容も、後任に選ばれた経緯も知らない。ただ、当時の和泉には、誰にも明かしていない思いがあった。
「俺も悩んでいたんですよ。何年やっても結果が出ないし、娘ふたりは幼稚園に通っていたんだけど、このままここで育てていいのかな......とかね。女房も東京の人間だし、そろそろけじめをつける時なのかなと思っていたんです」
じつはその半年ほど前、1991年の暮れのことだった。先輩である清水隆一が社会人野球の熊谷組の監督に就任することが決まり、その激励会が開かれることになった。
「その会で和田さんに相談しようと思ってたんです。でも、先輩たちも大勢いたし、ゆっくり話す時間が取れないまま、その日は終わってしまったんです」
のちに人づてに聞いたところでは、和田は生前、「和泉がいろいろな事情を抱えて悩んでいる」と、周囲に話していたというのだ。
「それで『東京か関東あたりで、監督のできる高校はないか』と言ってくれていたみたいで。阿久根(謙司)なんかが、僕の事情を和田さんに伝えていたのかもしれない。でも、本当のところはわからない。和田さんが亡くなる前から、『次は和泉だ』なんて言うはずがないですから」
早実OBで、監督経験があり、サラリーマンではなく柔軟に動ける──そうした条件を鑑みた時、和泉が後任候補として浮上したのだろう。そして早実側の意向は、「すぐにでも来てほしい」というものだった。
「でもさ、南陽工にもいい選手がいて、チームも強かったから、『夏まではこっちを見たい』とお願いして、7月までは山口に残ったんですよ」
その夏、早実は和泉の同級生・阿久根が急きょ指揮を執ったが、初戦で日大一に敗れた。一方の南陽工もベスト8で敗退。和泉が指揮を執った9年間で、ついに甲子園出場は果たせなかった。
「和田さんのことがなかったら、早実と関わることはなかっただろう」と和泉は言う。南陽工へ赴いた時と同じように、早実への帰還もまた、さまざまな縁に導かれた結果だったのかもしれない。
【あと少しで届かない甲子園】1992年8月、和泉は正式に早実の監督に就任した。選手たちの名前を覚える間もなく、すでに予定されていた愛知遠征へと出発した。
「中京大中京、愛工大名電と試合をしたけど、もうボロ負け。ボールが前に飛ばないんだもん(苦笑)。『これ、どうすんのよ』って思ったよ」
ところが、急ピッチで取り組んだ打撃練習が実り、秋季大会では準決勝まで勝ち進んだ。あとひとつ勝てば、選抜出場の可能性があるところまで来た。
準決勝は世田谷学園との打ち合いとなったが、7回二死、日没コールドにより10対14で敗れた。
「『暗くてボールが見えない』と。ゲームはもう成立していたからね。まさかそんな形で終わるなんて......。どうしようもないんだけど」
就任早々の甲子園出場は、もう少しのところで夢と消えた。世田谷学園はそのまま秋季大会を制し、準優勝の国士舘とともに翌春の選抜に選出された。
それから半年後の春、和泉は就任後初めての新入部員を迎えた。その選手たちが2年後の1995年夏、東東京大会(2004年から西東京に所属)の決勝まで勝ち上がる。勝てば1982年以来、13年ぶりの夏の甲子園。早実にとって、久しく遠ざかっていた聖地への切符をかけた大一番だった。
「帝京と打ちっこ(打撃戦)になった。エースで4番、キャプテンの村上(友一)が前の試合までずっと投げていて、もう肩が上がらない状態だった。初回にホームランを打たれて、『決勝だからコールド負けはねぇぞ』って(笑)。そしたら2年生の野口順平が打って逆転してさ。2イニングで2時間ほどかかったんじゃないかな」
試合は壮絶な打撃戦となったが、早実は最後に力尽きて13対15で敗れた。13年ぶりの夏の甲子園には、あと一歩届かなかった。
【退路を断った投手の覚悟】この試合には野口をはじめ、長島由典ら2年生も多く出場しており、新チームは秋の優勝候補に挙げられていた。ところが、秋季大会は1回戦で堀越に敗退。先発した曽根岡敦史が四球から崩れ、自滅するような形で敗れた。
「彼は先発に向いてなかった。先発を言い渡されると、マウンドに上がるまで時間があるじゃない。その間にいろいろ考えちゃって、気持ちが揺らいじゃうんだね。でも、ピンチでリリーフに行かせると、いいピッチングをする。だから、『野口が先発、曽根岡が抑え。夏はこれでいこう』と」
1996年夏は、初戦の学芸大付にコールド勝ちして好スタートを切ったが、翌日、野口の腕には包帯が巻かれていた。
「盗塁した時に腕を地面について、捻挫したっていうんだ。それで、下級生の花又(実)は球が遅かったけど先発させて、曽根岡を抑えに回して、なんとか勝ち進んだ。キャプテンの坂名(信行)がサヨナラホームランを打ったりしてね」
準決勝の駒大高戦では4点を奪ってリードしたものの、すぐに逆転を許し、早い回から曽根岡を投入した。和泉は、この試合のベンチ内の様子を今も鮮明に覚えている。
「曽根岡もアップアップで、ベンチでは『監督、曽根岡を代えましょう』という選手もいる。でも、ブルペンキャッチャーが『曽根岡で絶対に大丈夫です』って言うわけ。意見が分かれちゃったんですよ。
それで8回だったかな。俺が曽根岡に『代えるぞ』って言ったんだよ。普段は寡黙なヤツなのに、『嫌です』って言うの。『おまえとつき合ってたら、甲子園は行けねえよ』って言ったら、『だったら、フォアボールを出したら代えてください』って、自分で退路を断ったの。そしたら、そこからピシャリ。人が変わったように、いいピッチングをした」
準決勝を11対10で逃げきると、国士舘との決勝も8対6で勝利。和泉は、早実を1982年以来14年ぶりとなる夏の甲子園へと導いた。
和泉にとっても、監督として初めて立つ甲子園。「曽根岡に甲子園へ連れていってもらった」と振り返る。
「今でもよく言うんだけど、選手っていうのは、自分で退路を断って崖っぷちに立った時、精神的に開き直って強くなる。最後はその子自身が勝ちたいから、監督に本音をぶつけるんです。『代えてほしくない』って。そこから急に変わるんだよね」
【世界の王貞治からの電話】優勝を決めた夜、背中に差し込むような痛みが走った。翌日は練習を休みにし、妻と娘を連れて下田へ海水浴に出かけた。張り詰めていた緊張の糸がほどけると、背中の痛みも次第に和らいでいった。
「前年は準優勝だったでしょ。先輩たちから何か言われていたわけじゃないけど、自分のなかではプレッシャーをかけてたんだろうね。『やっと甲子園に出られる』という高ぶりよりも、ホッとした気持ちのほうが強かった」
下田から戻ると、和泉を感激させる出来事が待っていた。
「王(貞治)さんから留守番電話にメッセージが入っていたんです。ダイエー監督の王じゃなくて、『早実OBの王だけど、監督、おめでとう。よかったね。お祝いは何か考えるけど、奥さんにもよろしく言っといてね』と。もう、泣けました。世界の王さんが、たかだか早実の監督に『おめでとう』と言ってくれるなんて......」
そして甲子園では、東東京大会で負傷した野口も回復し、2試合に先発した。
和泉によれば、この年のチームには個性の強い選手がそろっていたという。
「ここぞという勝負の時にはお互いを認め合っている感じはあったけど、みんなで一丸となってやろうというチームではなかった。部員をコントロールするのは難しい。でも、部員同士が仲良しなだけでもダメなんです。お互いに意見をぶつけ合わないと成長しない。そして最後は生徒が覚悟を持って戦う気持ちになってくれないと......」
和泉はそう言って、「曽根岡じゃないけどさ(笑)」とつけ加えた。
教え子たちはその後、さまざまな経験を重ね、それぞれの道で活躍している。なかには、和泉と同じように、高校野球の指導者として甲子園を目指している者もいる。エースの野口は早大学院の指揮を執り、そのチームメイトだった長島は都市大塩尻(長野)の監督を務め、この夏は長野大会準優勝と健闘した。
「長島のところとは、毎年、練習試合をするんだよ。今年はチャンスだと思ったけどね。あいつは『シルバーコレクターになりつつあります』って言ってたよ(笑)」
教え子の話をする時、和泉は楽しそうで、笑い声は一段と大きくなる。
清水岳志●文 text by Takeshi Shimizu
