熱によって原子や電子が不規則に動くことで、回路の電圧や電流には小さな揺らぎが生じます。こうしたランダムな揺らぎは「熱雑音」と呼ばれ、通常のコンピューターでは計算を乱す原因となるため抑え込まれていますが、その熱雑音を逆に計算へ利用する「熱力学コンピューティング」の研究が進んでいます。AIや科学計算に必要な処理を、従来のコンピューターより少ない消費電力と発熱で実行できる可能性がありますが、記事作成時点では小規模な試作機やシミュレーションを使って原理を検証している段階です。

Thermodynamic Computing Advances with Design and Training - Berkeley Lab News Center

https://newscenter.lbl.gov/2026/03/05/thermodynamic-computing-advances-with-design-and-training/

Thermodynamic Computers Go With the (Energy) Flow | Quanta Magazine

https://www.quantamagazine.org/thermodynamic-computers-go-with-the-energy-flow-20260715/

現在のコンピューターでは、熱雑音によって0と1が誤って入れ替わると計算結果が壊れてしまいます。そのため半導体は、周囲の熱による揺らぎよりはるかに大きなエネルギーを使って、信号を確実に切り替えるよう設計されています。

しかし、信号を熱雑音から守るためには多くの電力が必要であり、消費した電力は最終的に熱として失われます。部品を高密度に並べたプロセッサーでは冷却も大きな問題になるため、熱雑音を徹底的に抑え込むという従来の方針にはエネルギー効率の面で限界があります。

熱力学コンピューティングはこの発想を逆転させたもので、熱雑音の影響が現れるほど小さなエネルギーで回路を動かし、熱によって生じるランダムな状態変化そのものを計算に利用します。流れに逆らって大きな力を使うのではなく、流れの向きや通り道を設計して目的地へ進ませるコンピューターといえます。

エネルギー状態を地形に例えると、エネルギーの低い安定した状態は谷、エネルギーの高い不安定な状態は山に相当します。熱力学コンピューティングでは坂の上に置かれたボールが自然に低い場所へ転がるように、解きたい問題の答えに対応する状態がエネルギーの最も低い谷になるよう回路を設計し、熱による揺らぎを受けながらシステムがその谷へ向かう過程を利用します。

熱力学コンピューティングには大きく分けて「平衡型」と「非平衡型」の2種類があります。平衡型はシステムが十分に時間をかけて安定した状態に落ち着いた後、その状態を読み取って計算結果とするタイプです。例えば、逆行列を求めたい行列の各成分を、回路要素同士の結びつきの強さとして設定します。すると熱平衡に落ち着いた回路では、熱雑音による電圧の揺らぎがどれくらい連動しているかを測るだけで、その値が元の行列の逆行列になるよう設計できます。通常のコンピューターが多数の演算を順番に実行するところを、物理システムが自然に落ち着く過程に計算を任せるというわけです。



ただし、平衡型はシステムが平衡状態に達するまでの時間が解く問題や回路の構造によって大きく変わり、いつ答えが得られるのか予測しにくいという課題があります。途中で別の「谷」にはまり込み、正しい状態へ移るまで長い時間がかかる可能性もあります。

そこで注目されているのが、システムが平衡状態に達する前の動きを計算に利用する非平衡型です。非平衡型は最終的な安定状態だけでなく、回路の状態が時間とともにどのように変化したかという「軌跡」に計算結果を埋め込む仕組みとなっています。

非平衡状態にある物体は、エネルギーの低い方向へ移動しようとしながらも、熱雑音によって絶えず別の方向へ押されます。このような運動はランジュバン動力学で表すことができ、回路を十分に小さな電力で動かせば、電圧や電流にも同様のランダムな変化を生じさせることができます。

非平衡型では、「一定時間が経過した時点の状態が答えになる」ように回路を調整できます。そのため、いつ平衡状態になるか分からないシステムを待ち続ける必要がなく、あらかじめ決めた時間に結果を読み出せるのがメリット。

熱力学コンピューターの実機開発に取り組むNormal Computingは、抵抗、コンデンサー、コイルを組み合わせたRLC共振回路を複数接続した平衡型の試作機を開発しました。この試作機ではそれぞれの回路にランダムな電気信号を与え、回路同士の結合の強さを調整することで、逆行列を求める処理などを実行できます。

ただし、この試作機は回路内で自然に発生する熱雑音だけで動いていたわけではなく、熱雑音の代わりとなるランダムな電気信号を外部の乱数生成器で作り、それを回路へ入力していました。乱数の生成や信号の入力にも電力が必要なため、試作機全体が従来のコンピューターより省電力だったことまでは、この実験では確認されていません。



熱力学コンピューティングをAIへ応用する研究も進んでいます。ローレンス・バークレー国立研究所のスティーブン・ホワイトラム氏とコルネール・カサート氏は、熱雑音によって状態が変化する回路をニューラルネットワークのニューロンに見立て、平衡状態を待たずに非線形計算を実行するモデルを提案しました。

通常のニューラルネットワークでは、入力を単純な比例関係ではなく曲線的に変換する「非線形性」が重要です。線形な計算だけを何段重ねても、全体としては1段の線形な計算と同じものしか表現できませんが、非線形な変換を加えることで、画像認識などに必要な複雑な関数を近似できます。

ホワイトラム氏らの研究では実物の回路ではなく、コンピューターシミュレーション上で熱力学ニューラルネットワークが再現されました。さらに遺伝的アルゴリズムを用いて回路同士の結合や入力の重みを調整し、指定された時刻に目標の非線形関数を出力するよう学習させました。



遺伝的アルゴリズムは、性能の良い設定を残し、その設定に少しずつランダムな変化を加えながら、さらに良いものを探す手法です。熱雑音を含む回路では同じ条件でも答えが毎回少しずつ変わるため、通常のニューラルネットワークで使われる学習法とは異なる探索型の方法が採用されました。

このシミュレーションではシステムが熱平衡に達していなくても、あらかじめ決めた観測時刻に非線形な計算結果を出せることが示されました。これにより、熱力学コンピューティングの用途は逆行列のような線形代数の処理から、ニューラルネットワークが扱うような幅広い非線形計算へ広がる可能性があります。

熱力学コンピューターは熱雑音を利用して動作するため、同じ条件で計算しても、得られる結果は毎回少しずつ異なります。そのため、信頼できる結果を得るには同じ計算を繰り返し、複数の測定結果を平均する必要があります。必要な試行回数が増えれば、それだけ処理時間や消費電力も増えるため、理論上期待される省電力性が実際の装置でも得られるかどうかは、今後検証する必要があります。

また、現在示されている成果の多くは小規模な回路やデジタルシミュレーションによるものです。回路を大規模化した際にも安定して学習できるのか、自然の熱雑音だけで十分な速度を得られるのか、通常のGPUやAI向けチップより本当に効率が良いのかといった点は、まだ実証されていません。

研究者らは、RLC回路に非線形素子を加えた構成や超伝導回路などを使えば熱力学ニューラルネットワークを実装できる可能性があるとしています。ただし、提案された非線形モデルは現時点ではシミュレーションであり、実際のハードウェアによる検証が今後の課題です。

熱力学コンピューティングは、通常のコンピューターをそのまま置き換える万能技術というより、確率的な計算やAI、最適化、科学シミュレーションなどに向いた専用計算装置として発展する可能性があります。また、細胞が少ないエネルギーで情報を処理する仕組みを理解する手掛かりになるという見方もあります。ただし、この分野はまだ初期段階であり、実際の装置を大規模化できるのか、そして従来のコンピューターを上回る省電力性を証明できるのかが熱力学コンピューティングの将来を左右するといえます。