ジャイアント白田(47歳)が語る“第二の人生”。激戦区の大阪なんばで「15年以上」串カツ店を経営し続けるワケ
2009年に道頓堀で開業し、2024年には南海通り店もオープン。飲食店の入れ替わりが激しい大阪の観光地で、15年以上にわたって店を続けてきた。
テレビで脚光を浴びた大食い王は、なぜ飲食店を始め、店を続けてこられたのか。本人に話を聞いた。
――白田さんが大食いで活躍されていた頃、テレビでよく拝見していました。なかでも、TBS系列で放送されていた『フードバトルクラブ』が印象に残っています。
白田:あれは、出ている側も楽しかったですね。ただ、今の時代に当時と同じことをやるのは難しいと思います。コンプライアンスの面でも厳しいですし、あの頃のような見せ方は、もうできないでしょうね。
――一方で、白田さんは当時から「調理師になりたい」と番組でも話していた記憶があります。
白田:言っていたと思います。もともと小中学生の頃から、将来は飲食の仕事に就きたいという漠然とした夢があったんです。それで高校を卒業したら調理師学校へ行こうと思っていました。ただ、親父は「男は大学に行け」という考えの人で、「高校を出てすぐ調理師学校へ行くなら、学費の援助は一切しない。全部自分でやれ」と言われました。
――そこで一度、大学に進むことにしたと。
白田:そうです。ただ、大学を卒業したら調理師学校へ行きたい気持ちが強くあって。アルバイトを続けて、調理師学校の学費として250万円ほど貯めていたと思います。
◆初出場の大食い番組でいきなり覚醒
――その頃は「大食いをやろう」と思っていましたか?
白田:いいえ。ただ、食べられる自信はありましたが、日常生活で限界まで食べることはないので、自分がどこまで食べられるのかは分かっていませんでした。大学生のときに寿司のチャレンジメニューに挑戦し、わりと簡単に成功したんです。それで「食べて賞金をもらえるならいいな」と思い、当時「皇帝」と呼ばれていた岸義行さんのWEBサイトを見て、賞金が出る店に挑戦するようになりました。
その頃に、大食い番組のリサーチ担当者から声をかけられたんです。学生時代の思い出に、一度くらいと思って出演したところ、初出場で準優勝しました。決勝当日は体調がすごく悪かったのですが、ラーメンを何杯食べても、お腹の感覚が変わらない。そこで覚醒した感じはありましたね。
◆大食い番組自粛期は会社員として生活
――その後、さまざまな番組で圧倒的な強さを見せていましたが、2002年頃には事故をきっかけに、大食い番組が一時期放送されなくなりました。その後はどうされていたんですか。
白田:社会を知るために、3年半ほどサラリーマンをしていました。ただ、持病の治療のため休業していたときに、たまたまテレビのレギュラーが決まったんです。毎週まとまった収入が得られるので、「やります」と引き受けました。
――会社を休んでいる間にテレビへ出ることを、勤務先は認めてくれたんですか。
白田:ダメでした(笑)。会社と「休業期間中に何をしているんだ」という話になり、休業を続けるか退職するかの二択を迫られました。テレビの収入が給料を超えていたので、退職を選びました。
その後は3年ほど、タレント一本で活動していました。ただ、年齢的にも、そろそろ本格的に開業へ動かなければと思ったんです。大食いのトレーニングは体や脳への負担が大きく、続けながら開業準備を進めるのは難しい。そこで競技をやめ、トレーニングをせずにできる仕事だけを受けながら、開業に向けて動き始めました。

