「62歳・住所不定・無職」で鮮烈デビュー “ホームレス作家”赤松利市さん死去 担当編集者、親交のあった女優らが語る意外な素顔
『藻屑蟹』『鯖』『犬』などで知られる作家の赤松利市さんが7月13日、東京都青梅市内の病院で亡くなった。70歳だった。訃報が発表された24日以降、親交のあった吉村萬壱さんや西尾潤さんら作家仲間が追悼コメントを投稿している。
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1956年、香川県生まれ。世界的な植物病理学者の父を持ち、幼少期にはアメリカで暮らした。大学卒業後は、消費者金融会社に勤務した後、会社を経営し、一時は年収2000万円を超えたという。しかし、事業の失敗、たび重なる家族との別離を経て、東日本大震災後の除染作業員の職に就く。所持金5000円で上京してからは路上生活を経験し、客引きなど日雇い労働で得た収入で漫画喫茶に通い、61歳で執筆活動をスタート。翌2018年、『藻屑蟹』で第1回大藪春彦新人賞を受賞し、『鯖』で異例のデビューを果たした。

デビュー時には「62歳・住所不定・無職」というキャッチコピーが注目を集めたが、その後も『犬』『ボダ子』などの作品を発表、貧困や暴力、差別、依存、人間の欲望をテーマに、社会の周縁に生きる人々を独自の筆致で描き続けた。2022年には週刊新潮でも短期集中連載『モス』を執筆するなど、晩年まで創作を続けていた。
「ある日ふらりといなくなるのかと…」
デビュー以来、およそ8年にわたって担当編集を務めた、徳間書店の鶴田大悟氏は、突然の訃報についてこう語る。
「晩年は執筆が苦しそうでした。『書けなくなったら、躊躇なく路上に戻る』とデビュー当初からずっと宣言しておられたので、ある日ふらりといなくなってしまうのかな、と漠然と思っていました。まさか天国に行かれるとは思いませんでした」
新人賞への応募原稿の段階から、赤松さんの文章に強い印象を受けていたという。
「すでに物語全体の空気を作り、その世界を掌握する筆力をお持ちでした。経歴も知っていましたから、どんな方がいらっしゃるのだろうと思っていました。サンダル履きに、スーパーのレジ袋を提げて来られたんです。その中に吉村萬壱さんの小説『臣女』が1冊入っていて、『この本がすごいんです』と薦められました。実はその本は私が編集を担当していたので、お互い驚きましたね」
作家・赤松利市のペンネームを考えたのも鶴田氏だった。
「《利市》はお父さんの名前の漢字を変えて。苗字は、高松市のいい高校を出ていたので《高松》と提案したところ“安直やなぁ”と叱られました(笑)。結局、その当時のクラスメイトだった女生徒の苗字を借りて《赤松》になりました」
「編集者を信頼してくださる方でした」
波乱万丈な経歴が語られることの多い赤松さんだが、鶴田氏が印象深かったと話すのは、その原稿への向き合い方だった。
「編集者をとても信頼してくださる方でした。こちらが疑問点を書き込んだりすると、それを上回る赤字で返してくださる。いつも真摯に原稿と向き合っていた作家だったと思います」
《書けなくなったら、躊躇なく路上に戻る》などと格好いいことを公言していたものの、酒席では弱音を漏らすことも。
「『私、いつまで書けるんやろか』とボソッと話されることがありました。そのたびに私は『書き続けて死ぬのが作家です。大丈夫です。骨は僕が拾います』と返していました」
もちろん、鶴田氏としては冗談半分だったが……。
「まさか本当に私が骨を拾うことになるとは。デビューから逝去まで伴走できたことは編集者冥利に尽きます。それも赤松利市という稀有な作家を担当できたことは、私の誇りです。私の冗談にはいつもニヤニヤ『なんでやねん』と突っ込むか、『ふっ』と鼻で笑って受け流していた。でも、小説の話だけは別でした。『鶴田さんとは小説でしか会話できへん』とよく言われましたが、その時間だけはお互いかなりシビアに話していました」
「私にとって、もう一人の祖父でした」
親交のあった女優・橋本紡も、その人柄を振り返る。
「赤松さんとの出会いは、本当に奇妙なもので……ある日突然XにDMが届いたんです。でも、その出会いがなければ今の私はなかったと思います」
橋本ら若い役者を気にかけ、食事をごちそうしながら励まし、多くの経験をさせ、人との縁を惜しみなく与えてくれたという。
「気難しい方とも言われますが、私のことを一度も否定せず、甘やかしながら、たくさんのことを教えてくれました。私にとっては、もう一人の祖父であり、先生のような存在。これからも赤松さんの作品が、多くの方に読まれていくことを願っています」
孫のような年齢の橋本が最後に添えたのは、いかにも赤松さんらしい一言。
「『ホッピーは外1本で中3杯』。肝に銘じます。赤松さん、ありがとう。また飲みましょう」
写真家・佐藤靖彦氏もこう振り返る。
「最初は口数も少なく、近寄りがたいオーラを感じました。少しずつ会話を交わすうち、人懐っこさを出してくれて、ファインダー越しに内面が見えてきた。もっともっと奥底にある、先生の本当の姿も見たかった。もうお逢いできないのが寂しい。あの日、ご一緒に杯を傾け、紫煙を燻らせながら時折見せた渋い笑顔は今も、心のフィルムに焼き付いています。さようなら、ありがとうございました」
デビュー当初から交流のあった静岡県在住のファン女性はこう話す。
「最後の無頼派がいなくなってしまった喪失感があります。破天荒で、ときに笑ってしまうほど無茶苦茶なのに不思議と目が離せない、まるで小説のような方でした。弱者の痛みや苦しさを綴った作品に救われた人は大勢いると思います。その一方で、著書『純子』に登場する、勇敢で物怖じしない少女もまた、赤松先生ご自身の姿であったと思います」
赤松さんは昨年12月から入院していた。鶴田氏によれば、来年公開予定の映画『藻屑蟹』を病床で楽しみにしていたという。
「はじめて賞を取った作品の映画化です、ぜひ観ていただきたかったですね。でも『これでタダで自由に観に行けるわ』と、向こうで笑っておられる気もします」
62歳で文学界に現れた異色の新人は、唯一無二の作品を遺し、わずか8年あまりでこの世を去った。作家として、最期までブレない姿勢を見せてくれた。
デイリー新潮編集部
