PL学園野球部 “最後の部員12人”を追いかけて

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 数多のスター選手を輩出した名門・PL学園硬式野球部は10年前の夏、廃部に追い込まれた。著書『永遠のPL学園』で真相を追ったノンフィクションライター・柳川悠二氏が"最後の部員12人"を追いかけて見えてきたものとは──「謎の廃部」の真実に改めて迫る。(文中一部敬称略)

【写真】PL学園硬式野球部で主将を務めた梅田翔大、最後の日に制服姿でベンチに入っていた土井塁人

"最後の部員"62期生はどこにでもいるような球児たち

 春夏通算7度の甲子園制覇を誇ったPL学園硬式野球部は、2016年7月15日、大阪大会初戦となる東大阪大柏原戦に6対7で敗れた。花園中央公園野球場に「ゲームセット」が告げられた瞬間、絶大な人気を集めた名門は事実上、消滅した。

 あれからちょうど10年――最後の部員となった12人の62期生のうち半数は結婚し、それぞれが社会経験を積んだ。主将だった梅田翔大は言う。

「もう10年が経ったなんて言われるまで気付きませんでした。僕らの代のPLは一度も公式戦で勝てませんでしたが、普通の高校生なら経験できないことをたくさん経験できた。今、自動車販売の会社に勤めていますが、社会に出ても理不尽なことはたくさんある。だけどPLの経験があるからなんとも思いません」

 梅田も23歳の時に結婚している。

「授かり婚をして、女の子と男の子がいます。子供に野球を強制するつもりはありませんけど、奥さんが『高校球児のママをしたい』と言っているので、いつか子供が『野球をやりたい』と言い出したら自分も全力でサポートするつもりです」

「できちゃった婚」ではなく「授かり婚」。30歳を前に、家族に車、自宅も手にした梅田のオトナな言葉遣いが10年という時間の流れを感じさせた。

 一方で学園の母体であるパーフェクトリバティー教団(以下、PL教団)の聖地(大阪府富田林市)は時が止まったような静けさだ。学園の正門も、大本庁のエントランスも、人の出入りがまるでない。風物詩だったPL花火大会(正式名称は教祖祭PL花火芸術)も2019年を最後に開催されていない。

 かつてPL学園の野球部には教団の浄財が投下され、全国より有望中学生を集めて常勝軍団を築きあげた。しかし、厳しい上下関係に起因する不祥事が相次ぎ、2013年2月にも先輩部員による暴力事件が発覚して6ヶ月の対外試合禁止処分が下った。当時の河野有道監督は引責辞任し、以降は野球経験のない校長が指揮官を務めていた。教団からの支援もストップし、62期生からは授業料などが免除となる特待生を受け入れないことが決定。それゆえ62期生は体格も小柄で細身の選手が多く、いわばどこにでもいるような球児が集まった。

 当時、野球部コーチだった千葉智哉(現彩星工科高校野球部長)が明かす。

「伝説のスカウトと呼ばれた井元俊秀先生が飛び回っていた頃のPLでは考えられなかったことでしょうが、62期は希望者のみの受け入れになっていた。つまり、PL側から選手勧誘はせず、入部を希望するなら受け入れますよ、という姿勢だったんです。学校の方針転換に、入学を予定していた選手の進路変更が相次ぎました」

 PLが野球部の強化をやめた──その噂が広まり、62期生はわずか13人(そのうちふたりは退部)しか集まらなかった。

誰よりもPL野球を体現していた"記録員"

 野球部最後の日、制服姿でベンチに入っていたのが土井塁人だった。野球をやる人生を父より託されたような名前の土井は、実は61期として梅田たちよりも1年早く入学していた。だが、1年生だった2013年10月、土井を突然、病魔が襲う。

「微熱が続いていたんですけど、野球をやるためにPLに入った以上、多少の熱ぐらいで練習を休むことはしたくなかった。ただ、10月に入って40度近い熱が続いて……」

 PL病院に行くと「急性リンパ性白血病」との診断。抗がん剤を投与される苦しい闘病生活を強いられた。幸いにして快復に向かったものの、出席日数の関係で留年することに。野球部を退部して学業に専念すれば、進級はできると学校から説明を受けたという。しかし土井は、留年してでも野球部に残って甲子園を目指すことを決意した。野球のないPL生活など考えられないことだった。

「1歳上には中川(圭太、現オリックス)さんがいらっしゃって夏は府の決勝までいきましたし、61期は秋季近畿大会でセンバツにあと一歩でした」

 61期生が引退し、最上級生となった土井は年齢制限により、公式戦には出場できなくなった。それでも野球部に残って梅田たちの練習を手伝い、公式戦では記録員としてベンチ入り。"校長監督"に代わって指揮した。

 62期は練習試合も敗戦続きだったが、それでも主将の梅田は報道陣には、気丈に「目標は甲子園です」と口にし続けていた。

「あのユニフォームを着て取材を受けている以上、甲子園の目標を口にしないことは許されないことだったし、たとえ笑われても自分たちは甲子園出場を信じていました」

 打席に入る時は胸の下にあるアミュレット(御守り)を握りしめた。捕手兼投手だった梅田のグラブには「球道即人道」という2代教祖・御木徳近が遺した部訓が刺繍されていた。PLに憧れ、PLを愛し、誰よりPL野球を体現したのが梅田だったかもしれない。

60年以上の歴史に終止符を打ったラストゲーム

 最終的に12人となった62期生は、公式戦の勝利がないまま最後の夏を迎えた。東大阪大柏原戦の前日、ナインをさらなるアクシデントが襲う。シートバッティング中に、セカンドの河野友哉とライトの正垣静玖の中間に打球が飛んだ。河野と正垣は激しく衝突し、黒土に倒れ込み、うずくまった。翌日の試合への出場が絶望的なのは誰の目にも明らかだった。

 当時を正垣が振り返る。

「完全に自分のミスだった。自分がもっと冷静でいられたら、河野君の声が耳に入ったかもしれない。最後の試合に出場できなくなって、今でも河野君には申し訳ない気持ちでいっぱいです。河野君は『気にするな』って感じで言ってくれるんですけど……」

 車で病院に運ばれる際、河野はコーチである千葉のユニフォームの胸ぐらを掴み、悲痛の表情で「明日は試合に出させてください」と懇願した。

 しかし、診断の結果、河野が左足大腿の骨折、正垣が左肩亜脱臼の大ケガだった。千葉は翌日の試合に向けて、守備位置の変更に着手する。試合に出場できるのは肩の関節唇を損傷してボールを投げられない藤原海成を含めても9人しかいなかった。藤原が振り返る。

「本来なら代打で出場する予定でしたが、急遽、レフトを守ることになった。問題は送球です。長い距離は投げられないので、打球が飛んできたらショートの水上真斗にトスして返球してもらうことになっていた。もし走者がいたら、自分の肩なんてぶっ壊れてもいいので思い切って投げようという覚悟でいました」

 試合では4三振に倒れ、「オレの責任で負けた」と繰り返した。

 その藤原には2歳下の弟がいた。新たに大阪の雄となった大阪桐蔭でスーパー1年生と呼ばれた恭大だった。18年に大阪桐蔭の春夏連覇に貢献した恭大は、ドラフト1位で千葉ロッテに入団した。

「10年前には言いませんでしたが、もしPLが新入部員募集を停止しなければ、恭大はPLに入学していた。恭大の1歳上で、お兄さんがPLの選手だった履正社の安田尚憲選手(現千葉ロッテ)も当初はPLに進学予定だったし、中学時代にオール枚方ボーイズで恭大と一緒だった小園海斗選手(現広島)もPLのユニフォームを着ていたかもしれない。彼らがもしPLに入学していたら、62期生の出番はなかったかもしれませんけど(笑)」

 もう少し辛抱強く野球部を維持していたら、再びPL時代が訪れたかもしれない。藤原はそう語るのだ。

 ラストゲームは4対5で迎えた7回表に藤村哲平の逆転2点本塁打で試合をひっくり返したが、8回に再び逆転を許して敗退。60年以上の歴史に終止符を打った。

現在の学園生徒数は3学年あわせて50人に満たない

 2014年8月に初めてPL教団の聖地を訪れて以来、私は野球部の廃部問題と母体である教団の窮状をレポートしてきた。

 野球部で相次いだ暴力事件だけでなく、信者数の激減により教団運営が窮地にあることから、廃部は「不可避」だと指摘。廃部を主導するのは3代教祖の御木貴日止氏ではなく、教団内で実権を握るその妻・美智代氏であると当初より報じてきた。活動休止からちょうど10年が経過した今、新証言も得られた。

 最後の夏を前に、3代教祖と美智代氏が野球部のグラウンドを訪れたことがあったという。美智代氏が選手にチョコレートを振る舞うなかで、車椅子に乗った3代教祖が選手や関係者の前でこう呟いたという。

「どうしてこんなに(部員が)少ないの?」

 言うまでもなく教団および学園が支援を打ち切ったのが理由だ。その言葉は3代教祖自身が廃部を推し進めたわけではないことを示唆していた。ならば廃部を断行したのは誰なのか。答えは明白だろう。居合わせた関係者はぶつけどころのない怒りに震え、選手たちも全身の力が抜け落ちた。

 貴日止氏は2020年12月に死去。教団では5年以上も教祖不在という状況が続いたが、今年2月に4代教祖が誕生した。新たな教祖は未亡人となった美智代氏である。

 公式戦未勝利で終わった62期生は進学先もなかなか決まらなかった。主将を務めた梅田は中学時代の恩師の助言で中央大学のセレクションに参加。

「牧秀悟(現横浜DeNA)や五十幡亮汰(現北海道日本ハム)がいて、レベルは相当高かった。PLのユニフォームを着て参加したのに不合格になったことは、野球人生における挫折でした」

 梅田は福岡の日本経済大学に進学し、野球部にも所属した。だが、1年で退学し、関西に戻った。

 梅田の1歳上となる土井は東京国際大学に進学して大学日本一を目指し、4年時にはキャプテンも任された。卒業後は一般企業に就職。だが、高校最後の1年間の経験から、「いつかは指導者になりたい」という夢を捨てきれず1年で退社し、同大に戻った。現在は嘱託職員として野球部のヘッドコーチを務めている。

 吹田市出身の土井は中学時代、硬式野球の摂津シニアに所属した。同チームの先輩にあたるのがPLの34期生の宮本慎也だ。土井は62期生で唯一、年初のOB会の懇親会に出席しているが、大先輩の宮本とも挨拶を交わす。黄金期の指揮官で、甲子園通算58勝を誇る10期生の中村順司が土井らとの縁をきっかけに東京国際大の練習に顔を出して大学生を指導することもあるという。先輩と後輩のつながりを大切にするPL野球人らしいエピソードだろう。

 現在の学園生徒数は3学年あわせて50人に満たない。OB会長の桑田真澄は野球部の復活について、「すべては4代教祖が誕生してから」と話していたが、4代教祖が認めるとは思えず、生徒もいないのだから復活は夢物語でしかない。

 PL学園は総勢82人のプロ野球選手を生み、アマチュア野球の指導者も数多く輩出した。既に野球部はない。復活も絶望的だ。それでも土井がヘッドコーチを務める東京国際大のようにPL野球は全国に伝承されている。

【プロフィール】

柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。2016年に『永遠のPL学園』で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。他の著書に『甲子園と令和の怪物』がある

※週刊ポスト2026年7月24・31日号