SUPER BEAVER渋谷龍太のエッセイ連載「吹けば飛ぶよな男だが」/第40回「恋は盲目」

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 空いた時間に一人で飲みに行くことがある。最初から最後まで一人ということは殆どないが、約束の前にそうすることが比較的多い。例に倣ってこの日も、私は馴染みの店に足を踏み入れた。するとそこにはご年配の見知らぬおじさんが一人、カウンターでグラスを傾けていた。こうやって書くとなんか小洒落た雰囲気が出てしまうので先に断っておくが、どの角度から見ても綺麗とは言えないお店にお世辞にも綺麗とは言えないおじさんなので悪しからず。

いま、編集部注目の作家

 おじさんから一つ席を空けて腰掛けた私は、注文した茶割を飲み始めた。するとわざわざ空けたその席におじさんは、よいしょと詰めて座り直し、隣の私に向かって言った。

「恋は素晴らしいんだよ」

 急に何を言っているんだろうと思ったが、とりあえず私は復唱した。

「恋は素晴らしいんですか」

 随分と酔っているように見えるおじさんは、満足してうんうんと二度頷いた。酔っ払いとの会話は復唱と、「へエ(興味深そうに)」「まじすか」「すごいっす」で絶対に成り立つから面白い。悪意があるわけではない、これを駆使すると、先輩方はいろんな話を聞かせてくれるので大変に役に立つ。

「ねエ、やめなよ。すみませんね」

 前半はおじさんに向けて強めに、後半は私に向けて申し訳なさそうに、カウンターの女の子が言った。二十代半ばと思しき女の子は、こちらに注意を向けながらもテキパキと動き、とても慣れているように見えた。

「いや、やめないよ。私はねこのA子ちゃんに恋をしているんだよ、なアA子ちゃん」

 おじさんはカウンターの女の子に向けて言った。A子ちゃんと呼ばれた女の子はカウンターの中で困ったようにため息を吐いて言った。

「ねエ、だから」

「だからじゃなくて」そう言っておじさんは私に顔を向けた。「恋はね、素晴らしいんだよ。毎日張りがなくて、楽しいことなんて一つもないよ。でもね、恋をしてから僕は毎日楽しい。なんでもないと思っていた時間も楽しい時間に変わるんだよ」

 孫とまではいかないが、これだけ歳の離れた女の子にこんな風に言えるのはなかなかにすごい。しかもなんというかスケベがあまり見えないのだ。年端もない男の子が、随分年上のお姉さんに向ける恋心のようなピュアが滲んでいた。あアそうだよな、この感覚だよな恋って。まるで関与していないものも含めた全ての行動原理に恋があるって感覚。どれもが楽しくて、でも少し苦しくて。なんだか妙に感動してしまった私は、酔いどれ対応マニュアルから脱線しておじさんに言った。

「なんか、わかんないっすけど、すごく素敵っす」

「だろ。君は恋をしているか? 恋は良いぞ、恋は素晴らしいんだ」

 おじさんはそう言ってトイレに立った。呂律も怪しかったし、その背中が随分よろけていたので少し心配になり、カウンターの女の子に尋ねた。

「かなり酔ってるね、大丈夫かな」

「多分大丈夫です、多分」多分を繰り返した女の子は、少し笑った。「絡んじゃってすみませんね」

「問題ないよ、ちなみにあの先輩は一体何時から飲んでるの?」

「えエと昨日の22時からなんで、もうすぐ丸一日になります」

 恋する化け物でした。目を丸くする私を見て女の子は続けた。「昨日ここから飲み始めて、朝から夕方まで別で飲んで、またここに帰ってきたみたいです」

 もののけ、妖怪、魑魅魍魎。案外、世の中は私なんかでは到底理解の及ばない生き物で溢れかえっているのかもしれない。視線の端で、トイレの扉が開く。おじさんはゆっくりと時間を掛けて歩みを進め、再び私の隣に腰をおろした。

「恋は素晴らしいんだよ」

 デジャビュだ。私も倣おう。

「恋は素晴らしいんですか」

 すると女の子がカウンターからおじさんに向かって水を差し出して「しつこい」と言った。こういう気遣いというか、培ってきた包容力のようなものに、このおじさんは惹かれてしまったのだろう。まんざらでもない感じでグラスを受け取って、水を一口飲んだ。

「しつこくないよ。いや、しつこくても良いんだ。恋は素晴らしいんだから」

 すると女の子も言った。

「素晴らしくてもしつこかったら良くないよ」

「素晴らしいんだから、この人にもわかってもらわないと」おじさんは私を指して女の子にそう言って、次はこちらに身体を向けて話を続けた。

「恋をしなさい。私はずっと楽しいんだぞ。この気持ちをわかってもらいたい」

 素敵だなアと思い深く頷き続けていたのだが、その姿が無理に合わせているように見えたのだろう、女の子は言った。

「はい、もうおしまい。飲み過ぎ、水飲んでください」
「いやア、素晴らしいな、毎日楽しい。ありがとう、A子ちゃん」
「ねエ、だから」

 女の子はため息を吐いて、割とびっくりすることを言った。

「私、A子じゃないですよ」

 私は止まる。なんだ、ミステリーなのか、理解が追いつかない。今女の子が言った言葉を脳内で反芻し、小さく動揺した。シックスセンスを一番始めに見た時と近い感覚だった。一人だけ取り残された気分だ、露骨に狼狽えながら私は訊いた。

「え、なに、あなたA子ちゃんじゃないの?」

「はい、違いますよ。A子ちゃんはさっきまでここに立ってた子です。二時間前に上がって、私が交代で入った感じですね」

「代わったのに気付かれてないってこと?」

「そうなんじゃないですか」

 A子ちゃんと呼ばれていたA子ちゃんではない女の子は、聞き分けのない子供を見るような視線をおじさんに送り、丸一日飲んでるし、と呆れた様子で言った。

 わアすごい。漫画みたい。どんな漫画かは知らないが漫画みたい。人違いしたままここまで恋の持論を展開させられるなんてすごい。私は半分寝ているようにゆらゆら揺れているおじさんの肩をバンバン叩いて言った。

「ねエ、ちょっと。あの子A子ちゃんじゃないらしいですよ」

「え」

「A子ちゃんじゃないんですって、あの子」

 それを聞いたおじさんは、やおら顔をあげて、女の子の顔を凝視した。考えてるのか、何も考えていないのか、たっぷり間を置いてからボソッと呟いた。

「まア」そう言ってタバコに優しく火をつけ、煙と一緒に「誰でもいいや」と言葉を燻らせた。

 ありがとうございます。この展開だもんね、それくらいいい加減な言葉を聞きたかったんです、ありがとう。最高です。私はおじさんに向けてグラスを掲げた。

「先輩、乾杯っす」

「あのなア」

「はい」

「恋は素晴らしいんだ」

「へエ、まじすか、すごいっす」

 マニュアル全部乗せで私は応じた。

 おじさんがこの後何時まで飲むつもりなのかも知らないし、女の子の本当の名前も知らない。生産性は皆無で、めぼしい収穫だって特になし。でも我々三人は、この夜に幾度も乾杯した。

 取り急ぎおじさんが恋をしていることは間違いないみたいだし、なんだか楽しそうだからそれで良いような気がした。

 「恋は盲目」という言葉の本当の意味を、初めて知った夜の話。