連載第20回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

サッカー日本代表でウイングバックに注目が集っていますが、日本サッカーは代々名ウインガーを輩出してきた歴史があります。「20万ドルの男」「ブンデスリーガ9シーズン活躍のレジェンド」「現在のテクニック系ウインガーの元祖」など、日本の名ドリブラーの歴史を伝えます。

【現日本代表のストロングポイント】

 10月15日のオーストラリア戦。日本代表は谷口彰悟のオウンゴールで先制を許してしまったが、76分に交代出場の中村敬斗が華麗なドリブルで相手守備陣を切り裂き、オウンゴールを誘発して同点とした。


オーストラリア戦では中村敬斗がキレのあるドリブルで活躍 photo by Ushijima Hisato

 この試合、左サイドでは前半は三笘薫が積極的にドリブルを仕掛け、後半は中村が躍動した。

 一方、右サイドでは堂安律と久保建英のふたりが何度も超絶テクニックを見せはしたものの、ふたりがサイドでのドリブル突破にこだわりすぎたため、効果的な攻撃につながらなかった。だが、堂安に代わって伊東純也が入ると、ダイナミックなスピードドリブルで何度かチャンスを作り出すことに成功した。

「超攻撃的3バック」と呼ばれる現在の日本代表では、攻守両面でウイングバックのパフォーマンスが勝敗に直結する。対戦相手を分析して、誰をウイングバックに起用するのか......。これからも、森保一監督は頭を悩ませることだろう。

 いずれにせよ、これだけ多くのサイドアタッカーを擁しているのは、日本代表の大いなるストロングポイントだ。

 日本でウインガーに脚光が当たるようになったのは、最近のことではない(時代によってシステムは変わっているが、ここではドリブルを武器とするサイドアタッカーを一括して「ウインガー」と呼ぶことにする)。

 1964年の東京五輪で「20万ドルの男」として有名になったのが、左ウインガーの杉山隆一だ。

【1964年東京五輪で注目を集めた20万ドルの男】

 当時の日本蹴球協会(現日本サッカー協会)は東京五輪に向けて、西ドイツ(当時)から特別コーチとしてデットマール・クラマーを招聘。まだ30歳代の長沼健と岡野俊一郎を監督、コーチに抜擢。長期合宿や欧州遠征を繰り返して代表強化を図った。

 代表にはその後、世界的なストライカーとして知られるようになる釜本邦茂もいたが、東京五輪時にはまだ弱冠20歳。最も脚光を浴びたのは釜本より3歳年長の杉山だった。

 日本は、初戦で南米の強豪アルゼンチンに3対2で勝利した(当時の五輪はプロの出場が禁止されていたから、アルゼンチンはプロ契約前の若手選抜)。そして、試合後にアルゼンチンの役員が岡野コーチに「あのウインガーを連れて帰りたい」と言ったというのだ。杉山のことだ。

 もっとも、「20万ドル」という金額は岡野コーチが創作した話のようだ。サッカーは当時の日本ではマイナー競技だったので、マスコミの注目を集めるために岡野コーチは「20万ドル」という数字を使ったのだ。

 為替レートは1ドル=360円の固定相場制だったから、20万ドルは7200万円。当時、プロ野球でもそんな金額の契約金はなかったから、杉山に注目が集まった。

 東京五輪の翌年にスタートした日本サッカーリーグ(JSL)でも、三菱重工(浦和レッズの前身)の杉山は最大のスターだった。当時は自由席が大半だったから、スタンドは杉山が走るタッチライン沿いから埋まっていった。

 当時の日本では足の速い選手がウイングを任され、ウインガーは俊足を生かしたドリブルでコーナー付近まで持ち込んで、センタリングを上げるのがスタンダードなプレーだった。腰を落としてボールをつつきながら縦に抜けていく杉山の俊足ドリブルは、サッカー少年たちのお手本だった。

 センターフォワード(CF)の釜本は、東京五輪後の4年間で世界的ストライカーに成長。1968年のメキシコ五輪で、日本は杉山と釜本のコンビを生かして戦った。スイーパーを置いて守備を固め、杉山が左からドリブルで持ち込み、杉山のセンタリングを釜本が決める......。

 実際、メキシコとの3位決定戦ではこのシナリオどおりの2点が決まり、日本が2対0で勝利して銅メダルを獲得した。

【ブンデスリーガで9シーズン活躍したレジェンド】

 杉山と同じくスピードドリブルを武器として西ドイツに渡ったのが奥寺康彦だった。

 相模工業大附属高校(現、湘南工科大附属高校)から古河電工(ジェフユナイテッド千葉の前身)に入社した奥寺はたちまち頭角を現わす。古河からブラジルのパルメイラスに短期留学した奥寺はフィジカル面の重要性に気づいて、さらにスピードに磨きをかけていく。

 当時のJSLには、スピードとパワーを兼ね備えた奥寺のドリブルを止められるDFはいなかった。奥寺は、ただ縦に走るだけで得点を重ねた。日本代表でも、1976年にマレーシアで開催されたムルデカ大会で釜本と組んでプレーした奥寺は得点王に輝いた。

 1977年夏には日本代表が欧州に遠征。西ドイツの名将ヘネス・バイスバイラー(1.FCケルン監督)と親交のあった二宮寛監督は、選手を数人ずつに分けてブンデスリーガの各クラブのプレシーズン合宿に参加させた。奥寺は1.FCケルンの合宿に参加。そこで、引退するハンネス・レーアに代わるウインガーを探していたバイスバイラー監督に目を付けられたのだ。

 日本人選手がプロとして西ドイツのクラブと契約する......。まったく前例のないことで奥寺自身は躊躇したが、二宮監督や日本サッカー協会のあと押しもあって、ついに海を渡る決意する。奥寺に与えられたポジションは左ウインガーで、1979年のチャンピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前身)準決勝で同点ゴールを決めるなど活躍した。

 W杯にも五輪にも出場できない日本サッカーの当時の状況を考えたら、日本人が西ドイツでプロになるなど夢のような話だった。

 僕はこういうふうに理解した。

「戦術眼を要求されるMFやフィジカル的な強さが必要なCFは日本人には難しいが、スピード勝負のウインガーなら通用するのだろう」

 だが、奥寺はその後、戦術理解能力が高く評価され、ヴェルダー・ブレーメンのオットー・レーハーゲル監督は奥寺をサイドバック、またはウイングバックにコンバート。奥寺は9シーズンに渡ってブンデスリーガで活躍することになった。

【現在のテクニック系ウインガーの元祖は?】

 杉山も奥寺もスピード系のウインガーだったが、テクニック系ウインガーとしては金田喜稔が日本を代表する存在だった。

 1958年生まれの金田は、メキシコ五輪で日本が銅メダルを獲得したあとにサッカーを始めた。その頃になると、海外の試合の映像がテレビで紹介されるようになっていたし、日本でも個人技を追求する指導者が現われていた。

 金田が入学した県立広島工業高校監督の松田輝幸もそんな指導者のひとりで、その後、日産自動車や日本代表で金田とともに戦うことになる木村和司は高校の1年後輩だった。

 中央大学2年の時に日本代表に初招集された金田は、韓国戦で釜本のアシストで初ゴールを決める。19歳119日。日本代表のAマッチでの最年少ゴール記録は未だに破られていない。そして、釜本はこの試合を最後に代表から引退した。

 さまざまなフェイントを駆使した金田のドリブルは、対戦相手にとってはわかっていても止められないものだった。足も速かったが、金田はやはりテクニック系のウインガーであり、現在の日本代表のウインガーにつながる存在だった。

 もうひとり、テクニック系ウインガーとして忘れてならないのが三浦知良(カズ)である。ブラジルでプロとなったカズは、Jリーグ発足直前の1990年に日本に帰国して読売サッカークラブ、のちのヴェルディ川崎(現、東京ヴェルディ)に入団した。

 そして、周囲の要求に押されてカズは自らのプレースタイルを変えて点取り屋として知られるようになったが、ブラジル時代のカズはフェイントを駆使するテクニック系の左ウインガーだった。

 もし、カズが帰国後もウインガーとしてプレーしていたら、いったいどんな選手になったのか? 僕は、時々そんな想像をしてみるのである。

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