「下手くそ!」舞台上の女優に浴びせられた「罵声」…超えられない”釜ヶ崎”の「伝説の踊り子」

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1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第130回

葬式なのに「作業着やジーンズ姿の男たち」…伝説のストリッパー・一条さゆりの“死”が引き起こした「異様な光景」』より続く

一条さゆりの17回忌

一条さゆりが亡くなって丸16年の2013(平成25)年8月3日、大阪・釜ケ崎で17回忌のイベントが開かれた。企画したのはストリップ劇場の元興行師で、釜ケ崎を撮っていたカメラマン、川上讓治である。

ライブハウス難波屋の収容人員は約100人だ。ストリップは廃れ、「伝説のストリッパー」に感慨を抱く者も少ないだろう。

川上は客の入りに不安があった。そのためイベントは当初、午後6時からの1回きりの予定だった。

ふたを開けてみると、収容を大きく超える客が詰めかけた。東京や東北、九州からやってきたファンもいた。「入れろ」「もう入れない」「どこから来たと思っているんだ」と険悪なやりとりになり、午後9時から2回目を開いた。初回、2回目ともに「17回忌」は超満員だった。

芝居『谷間の百合』

イベントでは、一条の引退公演の「目撃者」、一色凉太が当時の様子を語ったあと、引退したばかりの踊り子が一条の遺影を前にストリップについて話した。一色は熱気に溢れた会場の様子を思い出す。

「時代はすっかり変わっていた。それなのに、まだ彼女を惜しみ、懐かしむ老若男女がこんなにいるのだなと思いました。一条さんの存在の大きさを、改めて思い知った気がしました」

その後、野外劇団「水族館劇場」の女優2人で作る「さすらい姉妹」による芝居『谷間の百合』が披露された。

水族館劇場は87年に結成された劇団だ。自分たちを「中世河原者」の系譜と位置づけ、普段は寺の境内などに高さ13メートルにもなる仮設劇場を建てて公演している。

そのため広い場所が必要で、劇場を作るにも時間がかかる。「さすらい姉妹」はもっと簡単に公演できるよう結成された劇団内ユニットで、登場するのは千代次と鏡野有栖の2女優である。

釜ヶ崎での「リベンジ」

一条を描いた『谷間の百合』は04年、この劇団の桃山邑が書いた。初公演は05年初め。場所は釜ケ崎だった。これを作った理由を桃山はこう説明する。

「リベンジだったんです。釜ケ崎でウケる芝居を、なんとか作ってやろう。そう思ったとき、浮かんだのが一条さゆりでした」

「リベンジ」には理由があった。

桃山は97年末、連続射殺事件の永山則夫を描いた芝居『無知の涙』を作った。永山はその年の8月1日、拘置所で処刑されていた。北海道・東北から出てきた永山を描いた芝居を、「さすらい姉妹」が東京の上野公園や山谷で初披露した。

作品のクオリティだけでなく、東北出身の労働者が多い地域での公演だったためか、観客の反応もよかった。この劇団は、芝居を再演しないのが原則だ。それでもこの作品については、再演依頼もあり、何度か公演している。

その『無知の涙』を釜ケ崎で公演したのは01年8月15日である。夏祭り実行委員会の招きだった。場所は釜ケ崎中心部の三角公園だ。芝居が始まった直後から、労働者が騒ぎ出した。

「下手くそ、もうやめろ」

「聞こえねえぞ」

「自己満足でやっとんのか」

「大阪をなめとんのか」

やじ以上の怒声が舞台の女優2人に浴びせられた。最後には「帰れ」コールが起こる始末だった。

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