2025年、大阪万博の開催が大阪市・夢州で予定されている。それに伴って大阪府では様々な法整備が行われ、東京五輪が行われたときと同じように新しい規制が検討、施行される。かつて大阪では1970年に万博が開催された。当時から大阪市西成区を見続けた煙草屋『たけい煙草店』の店主、武井敏夫さんが語る当時の大阪と今の大阪について取材をした。

シベリアに抑留された父が開業した煙草店

たけい煙草店は昭和38年(1963年)に武井さんの父が開業し、武井さんは店を受け継いだ2代目の店主。父が終戦後に日本に帰還し、店を始めて以降、この場所から西成を眺めて続けてきた人物だ。

地元である西成を長年見てきた武井さんが最初に語ってくれたのは、店の成り立ちになる。

「知り合いから『煙草屋したらええんちゃうか?』と言われたのがきっかけで父が始めました。元々私は、煙草屋とは全く違う仕事をしていましたが、25歳の頃に父の具合が悪くなり、今までの仕事を辞めて、発注などの裏方の仕事を手伝うようになったのが、私の煙草屋としての始まりです。当時は煙草だけでは全然売り上げが立たず、新聞の方が売り上げはよかったですね。開業してから15、16年経つまでは煙草の売り上げなんてなかったです」(武井敏夫さん。以下()内同)

武井さんの父は第二次世界大戦が終わった後、シベリアで抑留され、武井さんが小学生になるまで、日本に帰ることが出来なかった。そんな父が始めたのが煙草屋になる。

武井さんは18歳の頃から、看板に文字を書く仕事をしていたが、それを辞めて煙草屋を手伝うようになった。当初は煙草屋よりも、兼業でやっていた写真現像が主な仕事だったという。

記念煙草も発売された1970年万博

西成は令和になった現在でも、昭和の面影を残す街の一つ。60年以上、同じ場所で煙草屋をしていると、見えてくる問題があるという。

「71年に私は結婚をしたので、当時の万博(1970年開催)は嫁さんと一緒に見に来ました。田舎から沢山人が出てきて、活気があったのを覚えています。その時外国人を初めて沢山見ました。昔は大阪でも外国人はかなり珍しかったです。

70年の万博で話題だったのは『月の石』ですよね。アメリカ館で展示されていたものです。アメリカのパビリオンでは東京ドームのような形の施設も凄くて、柱が全然ないので、どうなっているんだと思いました。またコンピュータも人気でした。何に使われるのかさっぱりわからなかったですけど、今は沢山使われています。まさかこんなことになるとは思いませんでしたね」

70年に開催された万博は、奥さんとデートをしたと照れくさそうに話をしてくれた。

そこで最も注目されていた物と言えば『月の石』になるだろう。アポロ12号が万博の前年に月から持ち帰った重さ約900グラムの石だ。

アメリカは世界で初めて月面着陸を成功したことから、テーマのひとつを宙開開発として大々的に宣伝をしていた。

ちなみに万博に際し、記念煙草も発売された。煙草が電車の中や道路上など、場所を問わず吸えた時代。記念煙草は大きなイベントのときには必ずといっていいほど発売され、その度に人気を博したのだ。

「70年の万博はとても楽しかった思い出でしたが、今回の大阪万博はどうなるのでしょうかねえ。大阪市は25年1月から万博に向けて市内全域を禁煙にするので、煙草屋としては困っています。昔は駅でもどこでも煙草は吸えましたが、今は吸える場所が本当に少ない。ポイ捨てするくらいならと思い、店前に灰皿を置いていますが、すぐに吸い殻でいっぱいになります。他で吸う場所が無いから、ここまで来るんでしょうね」

2025年万博開幕に合わせた「市内全面禁煙」の現実味

今回の大阪万博では大きな規制が検討され、その一つに煙草屋としては致命的とも言える、喫煙所問題が浮上している。

大阪市では、万博に向けての取り組みの一つに市内全域での路上喫煙の禁止を掲げ、違反者には1000円の過料が課せられる。大阪市の喫煙率は全国平均の16.6%を上回り17.7%という高い水準であるため、国内外からの観客を見込む大阪では、“見栄え”の美化に必死というわけだ。

しかし、そもそも一定の喫煙率がある場所なら、「禁止」にしたところでしわ寄せが他の場所に行くだけの話。「喫煙所をきちんとつくってくれたらいいんだけどね……」と武井さんが嘆くとおり、大阪市では、万博開始までに140箇所の喫煙所を確保すると息巻いたものの、進捗状況は煙に包まれている。

公道が無理なら私有地。飲食店など、店舗内敷地であれば灰皿の設置は自由だが――今度はそこで喫煙者のマナーが問われているのも事実である。吸い殻や灰を路上に落とす、灰皿自体は私有地でも、喫煙者は道路にはみ出しているといった問題だ。

大阪市環境局の回答は

大阪市環境局に、この喫煙所難民問題をどう考えるのかぶつけると、まずこの「過料」の有効性を強調する。

「過料制度を開始したのは、平成19年です。当初は認知度が低かったこともあって違反者が多く出ましたが、過料の存在が知られるにつれて、徐々に減少しました。今回の市内全面禁煙化も、問題なく対応できると考えています」(大阪市環境局)

喫煙所が足りず、民間私有地での喫煙問題が勃発していることについてはどう捉えているのか。

「実際に、私有地の灰皿によって、結果的に“路上喫煙”が行なわれているという声が寄せられることはあります。店の軒先が狭く、灰皿を置くスペースがギリギリの場所では、人が増えると敷地外の道路に立つしかなくなる人もいます。

ただ、市としては、灰皿の設置場所が明らかに公共道路であれば移設していただきますが、それが私有地であれば、何も言えません。そうした声があることを伝えることはできても、最終的に判断をするのは店側なので……」

なんとも煮えきらない回答。結局のところ大阪市としては、「路上で吸っていたら過料をとる。あとは知らん」スタンスなのである。

喧嘩や薬物が蔓延

さて、大阪の中心部からほど近い西成。古くから残る商店街もあれば、再開発が進んでいる場所もある。昔に比べて西成の治安は格段に良くなっていると武井さんは教えてくれた。

「昔の西成は労働者で溢れていました。高度経済成長の最中だったので、出稼ぎに来た人で賑わい、すぐに手が出る人も多かったです。あいつがこいつがと言い合いが始まって、騒ぎを聞いた他の人も加勢して喧嘩になることなんて、飲み屋では日常でしたよ。私は直接関わったことはありませんが、路地裏に行くと倒れている人もしょっちゅう見かけました。もっぱら、なにかの中毒かと噂されていましたけどね」

多くの出稼ぎ労働者が流入した西成。ドヤ街であるあいりん地区(釜ヶ崎)では血気盛んな男たちの暴力沙汰も日常茶飯事だった。さらにはそれに乗じた薬物売買も盛んに行われたほか、盗難や詐欺といったカネにまつわる犯罪も多かったという。

「昔は、レジに入っていたお札を10万円以上盗まれたりすることもありました。私が一人で店番をしていると、『表にゴミがある』なんて声を掛けられて、見に立った隙にレジから盗まれるんです。詐欺もよく起きていました。昔なら店番をするのに二人は必要でしたが、今はそんなことはありませんね」

現在の西成の治安はずいぶん良くなり、犯罪に巻き込まれることは滅多にない。それどころか観光地化し、観光客がカメラを片手に歩いている姿も散見されるほどだが、煙草屋としての未来はどうなのだろうか。喫煙者も減り煙草屋の数も減少している中で、西成最古の煙草屋は何を感じるだろうか。

「ここ10年くらいの間にコンビニが周りに3軒もできて……。最初の一軒ができた時、売り上げは3割程減りました。2軒目ができた時はもうそれほど変わりませんでしたが、去年できたコンビニが一番堪えましたね。あと何年煙草屋があるのかわかりませんが、いずれ個人店は無くなるかと思います。うちなんかは場所がいいから続けられていますが、ちょっと路地に入った煙草屋なんかは無理でしょうね」

長年煙草屋の軒先から西成を見続けてきた店主が示唆するのは、“町の煙草屋さん”が今後無くなるかもしれない可能性だ。「うちの今後ですか? 今は、私の子供が発注や会計の仕事をしてくれているので、数年は大丈夫でしょうけど、本人次第です」

取材が終わり、記者が煙草を買おうとすると、煙草が並ぶ棚を見もせずに手際よく取り出してくれた武井さん。「何の煙草がどこにあるかは全部覚えてるし、お客さんが何の煙草を買うか覚えてるから、自販機やコンビニよりも早く出せるよ」と優しく笑った。

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