中学二年の頃から株価をチェックして…伊藤忠商事・九代目社長の「驚きの生い立ち」

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元伊藤忠商事会長、そして民間人初の中国大使を務めた丹羽宇一郎さん。仕事に生涯を捧げてきた名経営者も85歳を迎え、人生の佳境に差し掛かった。『老いた今だから』では、歳を重ねた今だからこそ見えてきた日々の楽しみ方が書かれている。

※本記事は丹羽宇一郎『老いた今だから』から抜粋・編集したものです。

町の本屋さんに生まれた

私が育ったのは名古屋市西南部の町。祖父は我が家で本屋を営んでいました。この町で六つの小学校の全教科書を取り扱う、地域で唯一の本屋です。

私は幼い頃から、店の書棚に並んでいる本から興味ある一冊を抜き取っては、読みふけっていました。売り物なので汚さないよう気をつけながら読み、読み終えると元に戻してまた次の本を抜き取る、という繰り返しです。子供向けの伝記や文学全集から、『夫婦生活』といった大人専用の雑誌まで密かに盗み読みしていました。

その意味で、祖父は私が読書好きになるきっかけをつくってくれた人です。

本屋の名前は「正進堂」。正しく進む、というわけです。祖父がそういう真面目な人だったのか知りませんが、働き者だったことは確かです。当時としてはかなり背が高く体力もあり、ずいぶん遠くまで自転車に乗ってたくさんの本を運んだりして、兵隊じゃないかと思うほど逞しかった。

戦後、家から歩いて五分ぐらいのところにある銭湯に、祖父はいつも真っ先に行っていました。私もそのあとを追いかけていく。今思えば、楽しい時代でした。

父は、名古屋市の中心街に事務所をもち、通信機器の卸業をやっていました。

通信機器のいくつかの部品を他社に委託して製造してもらい、それを組み合わせて商品にして、日本電信電話公社(現・NTT)に納める仕事でした。

そういう仕事をしていたため、父は電機メーカーなど何社かの株に投資し、毎朝、自宅を出て事務所へ行く前に必ず証券取引所に立ち寄り、株価をチェックしていました。

株価のグラフ化が日課に

中学二年のとき、父は私に「こうやって株価をグラフにしてくれ」と言い、そのやり方を教えてくれました。新聞の株式欄の数字を毎日チェックして、父が投資している株価の上がり下がりを示す罫線をつくり、週に一回、それらをまとめて一つのグラフにするよう言いつけられたのです。

父が私に頼んだのは、いつも本ばかり読んでいて兄より暇そうに見えたからでしょう。弟や妹たちは、まだ外で走りまわって遊んでいるような歳でした。

この作業を続けるうちに私は、なぜ株価が上がったり下がったりするのか、その背景に興味をもち、株の値動きに影響する企業動向や政治・経済のマクロな動きを報じる新聞記事の見出しを、ノートにメモするようになりました。

父のおかげで新聞をよく読むようになり、経済にも関心がでてきたわけです。その結果、通っていた中学の先生も知らないようなことまで知るようになりました。

高校に入るまでの約二年間、それらの作業を続けました。

のちに伊藤忠に入社して、この経験が血肉となり身体にしみこんでいたと感じました。最初に配属された食糧部で、誰にも教えてもらわずに、穀物相場の変動を赤と黒の罫線で描くことができたのです。それを見た先輩が、「えーっ! きみはそんなことを知っているのか。ふつうは会社に入る前にそういうことを習わないよ。どうやって覚えたの?」と訊くので、「中学生のとき、父の仕事の関係で覚えました」と答えると、先輩はさらに驚いていました。

その後も、上司から相場の値動きをよく知っているなと言われたり、予想外の価格変動が起きたとき、その背景にはこんな理由があるのだろうと推測して、とっさの対応ができたのは、中学時代の経験のたまものです。

今思えば、三人の兄弟のなかで私だけが、父から特別に株の実地教育を受けていたようなものです。よく中学生にそういうことをさせたものだと思います。

後年、「あなたのお父さんには『この子が社会に出たら、きっと何かの役に立つぞ』という予感があったのかもしれない」と言う人もいましたが、まったく的外れな言葉です。

父は将来、私が会社で相場商品を担当するとは、考えもしなかったはずです。

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