葬式なのに「作業着やジーンズ姿の男たち」…伝説のストリッパー・一条さゆりの”死”が引き起こした「異様な光景」

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1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第129回

男たちを“興奮”させ続けた彼女がついに「あの世」へ…「南溟寺の住職」が「伝説の踊り子・一条さゆり」に付けた意外な「法名」とは』より続く

日雇いの労働者たち

戸次が黒い袈裟を着て現れ、遺体前のパイプ椅子に腰掛けた。しばらくすると大きな読経が響いた。

雨が強くなった。

参列者の多くは地元の住民、日雇いの労働者だった。喪服を着ている者はほとんどいない。作業着やジーンズ姿の男たちが目につく。読経に合わせ合掌している人は100人ほどになっている。

経が終わりに近づくと、雨はさらに強くなった。傘を差していても、撥ね上がる水でズボンが濡れる。労働者のなかには、傘も差さずに雨のなかで立っている人もいる。

参列者が遺体の前で、順番に焼香した。正面に晩年の遺影が飾られ、その前に缶のラガービールが2本供えられていた。

私も手を合わせ、菊の花を一条の身体の上に置いた。棺に横たわる彼女の身の丈が小さく感じられた。

初めて触れた一条の身体

棺をのぞき込む。顔にはきれいに化粧がしてあった。私が知っているなかで1番、若く、きれいな表情だ。眠っているような穏やかな顔だった。戸次から言われた。

「触ってあげてください」

私は両手で、一条の鼻からほおのあたりをなでた。冷たかった。考えてみれば、彼女の肌に直接、触れるのは初めてだった。握手さえしていない。

出棺の段になり、突然雨がやんだ。

霊柩車が解放会館前に横付けされた。白い布で覆われた棺が、男たちによって車に運び込まれ、その上に花束が一つ置かれた。そのときだった。参列していた男たちが口々に叫んだ。

「さゆりちゃん」

「ありがとうな」

「天国行ってもサービスしてな」

私には、一条の声が聞こえるようだった。

「よっしゃ、まかしとき」

「損はさせへんで。よう見て帰ってや」

きっと参列者それぞれの胸のなかでも、一条の声がこだましているはずだ。

車は最後にクラクションを一つ鳴らして釜ケ崎を後にした。

家族は誰も姿を見せなかった。

与えることを考え続けた

一条の遺骨は南溟寺に預骨された。

骨の入った約20センチ立法の箱は白いさらしでくるまれ、本堂にある御本尊の後ろに置かれた。一条がこの6年前、自分の人生について講演し、みんなと一緒におでんを食べた本堂である。

一条の死から約1ヵ月後、英国のダイアナ元皇太子妃(8月31日)が事故死したのに続き、マザー・テレサ(9月5日)が亡くなった。

このカトリック修道女が重体になったと知ったとき、一条はこう語っていた。

「元気だったら、私も困っている人に食事作ったりしたいなと思うんです」

思えば、サービス精神の固まりのような女性だった。与えられるより、与えることを考え続けた人だった。戦後日本の男性たちは彼女から、どれだけ楽しみや生きる勇気をもらったことだろう。

一条さゆりの姉たち

一条の姉2人が南溟寺を訪ねたのは葬儀から2ヵ月後の10月7日である。稲垣が「骨を取りにきてやってほしい」と伝えたためだ。釜ケ崎に近い地下鉄動物園前駅で稲垣と姉は落ち合い、車で南溟寺に向かった。姉たちは言った。

「いろいろありましてね。あの子には迷惑かけられました」

2人の姉にとって彼女は「和子」でしかない。彼女たちは、一条さゆりとは無縁である。

南溟寺に着いた姉は本堂で、戸次の読経を聴きながら手を合わせ、「一条」を受け取った。

姉のひざに抱かれた「一条」は、新幹線ひかり252号で住み慣れた大阪を離れ、古里・川口に向かった。

「下手くそ!」舞台上の女優に浴びせられた「罵声」…超えられない“釜ヶ崎”の「伝説の踊り子」』へ続く

「下手くそ!」舞台上の女優に浴びせられた「罵声」…超えられない“釜ヶ崎”の「伝説の踊り子」