にしおかすみこ、認知症の母とダウン症の姉と共に踏切を渡ったときの「危機」

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認知症の母、ダウン症の姉、酔っ払いの父と暮らすにしおかすみこさん。その様子を率直に伝える連載「ポンコツ一家」38回は2023年10月のエピソードを伝えている。なんとパンツを3枚履いていた認知症の母。ホントに認知症か? と思うようなユーモア満載の切り替えしが繰り広げられる中、酔っ払いの父に「ボケ」と言われてしょんぼりする姿が切なくなる。

認知症専門医の遠藤英俊さんと理学療法士の川畑智さんによる著書で、浅田アーサーさんが漫画を描いた『マンガでわかる! 認知症の人が見ている世界』(全3巻/文響社)を見ても、認知症になった人のつらさも浮かび上がる。

できることができなくなるのは誰も悲しい。病気やケガでなくても、昔は走れていたけど走れなくなったと切なく思う人も少なくないだろう。

そんな「できないことが増えていく」中で、道がわからなくなって迷子になってしまったり、「急がないとならない」乗り換えがうまくできなかったり……。

たとえば、9月29日、横浜市鶴見区にある、全長45メートルの踏切で事故があり話題となったが、踏切なども心配だ。国土交通省のデータによると、平成26年4月より令和5年12月末までの間に、69件の踏切事故が発生しており、71名の方が亡くなられている。その多くは警報機が鳴ってから踏切内に立ち入る例だというが、乗り物が線路に挟まってしまう事例もある。そして65歳以上の方が多いのだ。なにより、「急ぐ」ことが難しい高齢者や幼い子は心配だ。

にしおかさんが踏切で危機を感じた瞬間とは。

病院の帰り道。

とある日の午前中。姉の定期健診で母と私3人で病院に行った。診察を終え、その帰り道。ふたりとも珍しく駅まで歩くと言うので、良い傾向だなとのんびりつきあっていたら、割と早めに老婆の意欲が低下する。

「もぅ〜疲れた。あーあ、何で歩かされなきゃいけない? 腰も膝も痛い。トイレにも行きたい。こんな拷問あるかい! 駅は近いってウソついてからに。お姉ちゃん、すみちゃんに騙されたね! イヤだね!」

すると、今の今まで軽快に歩いていた姉が「ウソと どろぼうのはじまりは すみちゃんなの」と急にダラダラし始める。

誰が悪の根源だ。だいたい私は近いと言っていない。が、実際遠くはない。大通りの先にはビル群と駅が見えている。

トボトボと目の前を歩く、不貞腐れた小山2つを眺める。このぶんだと後15分はかかりそうだ。

踏切に差し掛かる。真ん中辺りでカンカンカンと鳴り出した。横断距離は短いが、認知症の高齢者と障がい者だ。私は少しピリリとする。

母が「あら、あらあら、行ったほうがいいか、戻ったほうがいいか」を繰り返し、固まり始める。

急がねば。

慌てず急がねば。2つの小山の間に割って入り、右手で姉の手をそっと握る。怖いと感じたらテコでも動かなくなる。眼に、おや?という影を滲ませてはいるが、まだ大丈夫そうだ。次に、私は左手を母の肩に回し「ママ、進むよ。引き返さない。転ばないで」と短く言葉を切りながら伝える。

3人で少しずつ前へ、順調だ。なんてことはない。

母が「すみ、大丈夫よ。慌てなさんな。落ち着きなさい。さてどうする?戻ろうか、行こうか」。ババアの脳が振り出しに戻っている。

カンカンカン。警報音が煽ってくる。

更に「あれ、あれれ、すみ、あれ見て。間に合うか?」と、何かに気を取られた。私たちは踏切の右側にいる。中央を車がガタガタと通り過ぎる。母の目線はその奥、左側だ。若いお母さんが小さな子の手を引きながら渡ろうとしている。目指す方向は私たちと一緒だ。女の子がグラッと体勢を崩すも、スッと腕ごと引き上げられる。転んではいない。

それでもウチのババアは「あ!あの子!危ない!あ、あ、あ、」とそちらに、フラフラと横移動して行く。お前が危ない。

「ママ!」私の声が空振りする。

遮断機が下り始める。若いお母さんが子供を抱き上げ踏切の外に出た。ゴール。

あれあれあれ

ババアの顔がホッとし、ハッとする。

「あれ! あれあれ! 棒が下りちゃう! すみ! 早く! ボサっとしない! あれあれあらら! 閉じ込められちゃうよ。こんなことされたら年寄りと障がい者はどうしたらいいんだ。死ねって言っているようなもんじゃないか。世の中おかしいよ、だって考えてごらん?」

「うるさい!」私の足で、あと数歩なのに何故渡れない。最悪の結末が脳をかすめる。どっちもは無理だ。「ママは自力でまっすぐ!」と指示を出す。

「何言ってんだ!お姉ちゃんが先だろう!」

「うるさい!! わかってる! 私が連れてく! 時間ない! 言うこと聞いて!」

「言うことは聞けない! お姉ちゃんが先!!」

だから……「殺すぞババア!!!」どんなセリフだ。自分から飛び出た言葉に構っていられない。私は「お姉ちゃん走るよ!」と小さな手を握りしめ引っ張る。動かない。しまった。固まっている。動かざること山のごとし。×2。……どうする?担げない。突き飛ばすか?

そのとき。母が動いた。ふわりと姉の横に回り、私を見る。こう言った。

「すみ、先行きなさい」。……出た。真剣なのはわかるが、ドラマチックな顔をするな、クソババア。

そのとき。

そのとき。姉が叫んだ。警報音をつんざくような声で。悲鳴か?違う、こう言った。「みんなぁ ゴー!!!」。

えええ?!!

3人で飛ぶように走った。それは魔法にでもかかったようだった。

つもりだったが、ノッソリノッソリとジャンプするような大股早歩きの姉を遮断機が下り切る前に通過させた。振り返ると、後ろからトコトコ小股で気持ちだけダッシュしている母がいる。両手で老婆の体を手繰り寄せ「頭、低く!」と言ったら、私の手ごと地べたにつけたので、お互い四つ這いの向かい合う状態で棒をくぐり抜け、逃げ切った。

たかが、ギリギリで踏切を渡った、それだけのこと。それでも気の小さい私の目には涙が溜まっていた。ふたりを見る。サッサと立ち上がっていた母と姉が並んで、笑顔でどこかに手を振っている。どこよ?

車道を挟み反対側の路肩にいる、先程の親子だ。存在すら忘れていた。子供は抱っこされたまま、顔を母親の胸に埋めている。代わりに、その若いお母さんが会釈してくださった。私も立ち上がり軽く頭を下げた。ガタンゴトンと電車が通過し、風圧が背中の汗から服を引き剥がした。

苛立ちながら…

私は怒っていた。不貞腐れてもいた。何に? 自分の甘さに? わからない。

2つの小山を無視し、ズンズン先を歩いた。

ひとりで駅に着き、飲み物を買って苛立ちながら待った。

遅れて辿り着いたふたりに、リンゴジュースとコーヒーを突き出した。

姉がゴクリゴクリと喉を潤す傍らで、母は缶を持ったままだ。

ババアにしてはおずおずと、「お疲れのとこ悪いんだけど、ねえ、もっちゃん」と。

え? 誰って? もっちゃん?? 急に出てきた名前に困惑する。

「ママ、いろいろ……言いたいことがある。……混乱してフフフ」と白髪で薄くなった眉を困らせる。

「何?」言えるよ。落ち着いて。忘れた? それでもいいよ、どうした?

「踏切で……ママ……お姉ちゃん守れなかった。そのせいで……あんたも危うかった。……親失格。……迷惑かけた。ねえ、すみちゃん。フフフ。ママはどうして、たどたどしく喋るのでしょう?」……泣きたいから?

母が回答を口にする。「……ずっとトイレ行きたくて……もっちゃうから。……もっちゃうから頭が回らない。喋れない。どうしよう、もっちゃん」……ああ。そう。

慌てて駅ビルのトイレに連れて行く。姉がキャッキャッと笑う。勘弁してくれよ。

◇次回は11月20日に公開予定です。

認知症の母がトイレから出てきて…にしおかすみこが見た、母がしょんぼりした理由