いま明かされる、阪神・藤川球児新監督の「火の玉ストレート」を生んだ2つの「意外な要因」

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プロ野球・阪神タイガースの次期監督に藤川球児氏の就任が決まった。的確な解説でも人気を博した新しい虎将、その現役時代のエピソードを改めて振り返りたい。藤川氏の「火の玉ストレート」の誕生秘話から引退試合の最後の1球までを語り尽くした著書『火の玉ストレートプロフェッショナルの覚悟』から抜粋・再構成して紹介する。あの「火の玉ストレート」が生まれた背景にある、2つの意外な理由とはーー。

「トレード要員」だった時代も

マスコミの取材などを通じて、これまで僕自身も「若いころ、阪神をクビになりかけた」と話してきたから、そのことをご存じの方は少なくないかもしれない。

だが、正確にいえば、僕はそのとき有力なトレード要員のひとりだった。仮に阪神から放り出されたとしても、その時点でユニフォームを脱いでいた可能性は低く、おそらく他球団に移籍していたと思う。

いずれにせよ、2003年のシーズンが終わった段階で、僕が翌年以降のチームの構想からはずされそうになったのは事実である。

そのとき、戦力外候補者のリストから僕の名前を消してくれたのは、その年から1軍の監督に就任した岡田(彰布)さんだった。

当時の僕は、そうした事情をまったく知らなかった。知ったのは、その4年後の春季キャンプ中、岡田監督から聞かされたときである。

すでに過去の話だったとはいえ、自分がかつて有力なトレード要員だったという事実には、やはり深刻な響きがあった。

自分が所属している組織から不要な人材と判断されかけたのだから、それも当然だろう。

それを笑って聞き流せるほどの心の広さは僕にはなかったし、そこに悲しみを覚えるだけの阪神に対する忠誠心が僕にはあった。

以来、僕はあらためてプロ野球選手としてどう生きるべきなのか、突き詰めて考えるようになった。

そして、僕の阪神に対する個人的な愛着は失われなかった。

正直なところ、岡田監督から真相を聞かされたときは複雑な気分だった。

ドラフト1位で入団したというプライドもあって、阪神は僕に期待を寄せ続けてくれていると信じていたし、思うような結果を残せずにいる自分を不甲斐なく感じていた。それは僕の片想いだったのかと、自分が滑稽に思えた。

しかし、よく考えるうち、そうした情緒的な関係を期待していた自分の甘さに気づいた。

僕はプロ野球選手なのであって、阪神の職員ではないのだ。終身雇用も年功序列もない。不要な選手を放出して、必要な選手を獲得する。それがプロ球団の原理なのだという事実に、あらためて思いいたった。

「右腕一本で生きていく」覚悟

僕にとって、その後も阪神は特別な存在であり続けた。だが、阪神一筋に生きるべきだとは思わなかった。不要になれば、遠慮なくクビにしてくれればいい。そのとき、僕はこの右腕一本で生きていく。

逆に、僕が別の世界へ飛び出したくなったら、「阪神の名を上げてこい」と送り出してほしい。

プロ野球の世界とは、そういうものではないかと思った。

そういう機会を与えてもらったという意味で、知られざる真相を打ち明けてくれた岡田監督には感謝している。

岡田監督が話してくれたのは、僕の成長を認めてくれたからだと思う。そうした経緯を糧にできる選手ではないと考えていたら、あえて本人には明かさないだろう。

そのころの僕は、2005年、2006年と2年連続で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得していた。これは、先発を経験してから中継ぎになったことで、試合全体を見渡せるコツのような感覚を身につけたことが大きい。

また、1年を通して中継ぎとして結果を出してきたことでの自信、いつ自分の出番が来るのかわからない登板に向けての試合への入り方もつかんでいた。

やがて、僕がはっきりとしたかたちで認識するようになったのは、自分がこの右腕一本で生きている、という事実であった。

藤川球児というプロ野球選手に存在価値があるとすれば、それはこの右腕でしかない。

僕が投げる1球1球が、すなわち藤川球児なのだ。

僕の仕事とは、ただただ価値のあるボールを投げることに尽きると思った。

どんなユニフォームを着ようが、どの球場のマウンドに立とうが、それらはあまり大きな問題ではない。大切なのは、ファンのみなさんが僕のボールに満足してくれるかどうかだ。

だから、僕はいつつぶれてもいいという気持ちで、全力で投げた。

投げられなくなれば、潔くユニフォームを脱ぐ。僕がいつでも引退する覚悟でプレーするようになったのは、ちょうどこのあたりの時期からである。

故障したことで生まれた剛球

まさか自分が戦力外候補者にあげられているとは思わなかったが、岡田新監督のもとではじまる2004年のシーズンが正念場となることは、僕も自覚していた。

それまでの5シーズンの通算成績は、48試合に登板して、2勝6敗だった。夏には24歳を迎える。もはや、育成中の選手とはいえなかった。

だが、春先から僕はつまずいてしまった。春季キャンプ中、またも肩を故障したのである。プロ入り以来、ほぼ毎年、僕は体のどこかを故障していた。

われながら、これほど故障が多い選手は使いづらいだろうなと思った。課題であったスタミナ作りも重要だが、いかに故障を防ぐかということも、そのころの僕にとっては優先課題のひとつといえた。

面白いもので、そうした意識でいたことが、「火の玉ストレート」の誕生につながった。

つまり、故障を防ぐための工夫が、結果として、僕のストレートの質を大きく変えたのである。

僕のストレートが、まるで突然変異を起こしたように目に見えて変わったのは、このころだった。

直接的な要因は、2つある。

ひとつは、投球フォームの修正である。

投球フォームの修正が成功したのは、2軍の投手コーチだった山口高志さんのおかげだ。

山口投手コーチは、僕の投球フォームに故障の原因がひそんでいると見ていた。「フォームの修正によって、肩や肘への負担を減らすことができる。やってみないか」。そう提案してくれた。2004年5月ごろのことである。

それ以来、山口投手コーチの意見を聞きながら、僕は慎重に投球フォームの修正に取り組んだ。

1か月ほど経って修正されたフォームが体になじんでくると、以前より力むことなく投球できることがわかった。

肩や肘への負担が減り、体力の消耗も抑えられていることが実感できた。そして、ボールにきれいなタテ回転がかかって、ストレートが異様に走り出したことにも気づいた。この回転が、打者の手元でホップするといわれた「火の玉ストレート」の特徴である。

「歯の矯正」で身体が変わった!

もうひとつは、意外に思われるかもしれないが、「咬合の矯正」だった。歯科治療によって、嚙み合わせを改善したのだ。

投球フォームの修正と並行して取り組んでいたこの咬合の矯正の効果も、僕は見逃すことができない。それらの相乗効果によって、「火の玉ストレート」が生まれた。

近年、スポーツ医学の進歩が選手寿命や成績に好影響を与えていることは、よく知られている。プロ野球の世界でも、科学的な知見が積極的に取り入れられるようになって、選手の意識も変わってきた。

今や、たいていの選手にかかりつけの歯科医院があると思う。歯の健康状態が選手としてのパフォーマンスを左右することが、科学的に明らかになってきたのである。僕も、自宅から徒歩数分の距離にある歯科医院に定期的に通っていた。

この時期、咬合の矯正に取り組んでいたのは、故障しにくい体作りを決意した僕のプロ意識のあらわれである――。そう言えると格好がいいのだが、真相はじつに身も蓋もない。

要は、僕の年俸が上がったからだった。

プロ入り以降、とくに激しくなったトレーニングなどによって、僕の歯は大きなダメージを受けていた。

歯科医院を受診するたび治療をすすめられていたのだが、ご承知のとおり、歯の矯正には保険が適用されない。経済的な余裕がなかったため、治療できずにいた。

ところが、その前年あたりに年俸が上がった。おかげで、ようやく治療ができたのである。治療費は、数百万円という高額だった。

治療の効果は、その年の初夏あたりから実感できるようになった。食事や睡眠にも好影響があって、生活の質が向上し、明らかにコンディションがよくなった。

以降、試合中にスタミナ切れを感じる場面はほぼなくなったし、故障もほとんどしなくなった。

投球フォームの修正というテクニカルな改善効果はもちろんだが、こうした体質改善の効果も決して軽視できないと思う。

藤川球児の「重い球」「ノビのある直球」の正体がついに分かった…!