【訃報】西田敏行さん(76)死去 東京・世田谷区の自宅で…映画「釣りバカ日誌」、大ヒット曲「もしもピアノが弾けたなら」も
俳優の西田敏行さんが亡くなった。76歳だった。
西田さんは17日午後0時半頃、東京・世田谷区の自宅で亡くなっているのが見つかった。
警視庁によると、西田さんの関係者の男性から「ベッドで冷たくなっている」と110番通報があり、その後、死亡が確認されたという。西田さんには既往症があり、病死とみられている。西田さんは映画「釣りバカ日誌」シリーズでハマちゃん役を演じるなど、ドラマや舞台で幅広く活躍した。
「釣りバカ日誌」で不動の人気に
(「釣りバカ日誌」撮影風景 2005年)
「スーさんたち世代が、一生懸命戦後頑張ってくれたおかげでさ、おれたちこうやって平和でのんびりと釣りができるんだもんね」
「ありがとね、スーさんね。よく頑張ったね、良い子だ良い子だ。」
優しい父親のような役柄から、時には任侠映画の強面役まで幅広い演技力で親しまれた俳優の西田敏行さん。
東京・世田谷区内の自宅で亡くなっていたことがわかった。76歳だった。
西田さんは、1970年に舞台俳優としてデビュー。多彩な演技でテレビや映画など数多くに出演していた。
中でも、西田さんを人気俳優に押し上げたのは、主演を務めた映画「釣りバカ日誌」だ。
西田さん演じる建設会社の平社員・ハマちゃんが、社長を演じる三國連太郎さんと繰り広げる珍道中が大人気に。
(2008年 映画「釣りバカ日誌19 ようこそ!鈴木建設御一行様」初日舞台挨拶)
三国蓮太郎:
釣りバカをやるにあたりまして、2作3作。逆に数えたら数え切れないほどたくさんやって。
西田敏行:
数えられます。19です。(笑い)
三国連太郎:
21作目でしょ?
西田敏行:
違います。スペシャル入れたら。知ってるじゃないですか〜(笑い)
2013年に亡くなった三國さんとの名コンビで、国民的映画となりました。
’(2010年 映画「釣りバカ日誌 ファイナル」ロケ地22カ所御礼舞台挨拶)
西田敏行:
実はですね、1月20日、スーさんこと三國連太郎さんの87歳のお誕生日でございます。♪ハッピーバースデー…。
西田敏行:
スーさんとハマちゃんが(ケーキの上で)釣りしてますね。本当におめでとうございます。そしてうれしいです。
西田敏行:
そしてきょうこの日が、この釣りバカ日誌、最後の舞台挨拶、みなさんに対するご挨拶ということになろうかと思います。本当に本当に釣りバカ日誌、かわいがっていただいてありがとうございました。ハマちゃんはみなさんの心の中にずーっと永久に不滅です。ありがとうございました。
他にも数多くの大河ドラマやテレビドラマ、映画では山田洋次監督の代表作「学校」や北野武監督の「アウトレイジビヨンド」、さらに三谷幸喜監督の作品にも欠かせない俳優だった。
何度も病気やケガに苦しむも…2018年には叙勲
2003年に心筋梗塞で緊急入院。
復帰後の会見では闘病生活の様子をこう語っていました。
(2003年3月心筋梗塞から復活会見)
西田敏行:
ありがごうございました。ご心配かけました。病院食だけでここひと月暮らしていたので、カロリーもきっちり計算した上での食事だったので、8キロか9キロ痩せてると思います。
(Q.タバコもやめました?)
タバコやめました。
(Q.お酒は)
お酒は1・2合だったらよろしいですよというお許しをいただいておりますので、これはやめる訳にはいかないなと。
(Q.入院中に吉永小百合さんから手紙が?)
西田敏行:
いただきましたー。「即たばこをやめられたらいかがですか?」という内容の手紙だったので、すぐ手紙に返事しちゃいました。はーい、やめまーすって。
会見ではそれまでタバコを1日60本から70本吸っていたと告白。
さらに、このとき生死の境をさまよったことも明かしました。
西田敏行:
それは、もうこれは命を拾ったなと言うか助けていただいたなっていう気持ちでね、この助けていただいた命はこれから大事に使わないとという気持ちになりました。
(Q.看病してくれた奥さんには?)
本当にありがとうですね。確かに大変、かつがれたときには大変な話もドクターから聞かされたと思うんですね。心理的な動揺っていうのは大変だったろうと思います。
元気にさせていただいたんだから、今度はお礼に色んな事してあげたいと思いますね。
俳優業に復帰したが、その後も何度も病気やケガに苦しんだ。
(2018年 春の叙勲)
西田敏行:
大変光栄に思っております。これまでの私の俳優としてのキャリアを認めていただいたというか、お褒めいただいたことに、まず感謝します。
頸椎を亜脱臼してから、歩行の方がいまいちちゃんと取り戻せていないので、なるべく早めにしっかりとして、今までは避けていた舞台なんかもやれるような体にして、もうちょっとひと頑張りさせていただきたいなと思っています。
(2022年1月「大怪獣のあとしまつ」)
西田敏行:
コロナ最初はなめてかかっていたところがあった。コロナの怖さを知るにつれ、だんだん撮影が最後まで完成できるか不安にもなりましたけど、監督が「やります」という力強い言葉いただいて、“生きていてよかったな”と思って撮影に臨みました。どんどん老けていくからね、こっちも…。
2024年10月8日には、映画の制作発表にも出席したばかり。突然の別れとなった。
ふるさと・福島への思いは強く
福島・郡山市出身の西田さん、2011年に発生した東日本大震災ではふるさとの復興に奔走。
ふるさとへの思いは強く、2011年、東日本大震災の翌月には、被災地へ足を運び、原発による風評被害を受けた福島の野菜や果物などを食べ、先頭に立って安全性をアピールした。
(2011年4月「がんばろうふくしま!地産地消運動」福島・郡山市)
西田敏行:
福島は負けないぞー!どんなこともがあっても負けねーぞ。
西田敏行:
80過ぎたばーちゃんが俺の手握って「帰りてー」、一言言いました。涙が止まりませんでした。 福島を汚したのは誰だ!!!なんだ!!!本当に腹が立ってます。でも、どうか、どうか、みんながふるさとに戻って、そして、もう一度あの美しい、“うつくしまふくしま”を俺たちの手で取り戻そうじゃないですか!!頑張りましょう!!
震災の翌年には、故郷で行われた復興イベントに出席。
(2012年3月11日 震災復興イベント「福魂祭」)
西田敏行:
世界で初の悲しい出来事を体験したんですよ、福島は。だったらそれをジャンプ台にして、世界初のモデルケースになるような復興のコミュニティーを作ろうじゃないですか。福島県民はそういうパワーを元々持ち合わせていますから。がんばりましょう。
そして、50万枚以上を売り上げた自身の大ヒット曲「もしもピアノが弾けたなら」を披露した。
その演技力とマルチな才能、さらに底抜けに明るいキャラクターで愛された西田敏行さん。
突然の死に悲しみが広がっている。
(「イット!」 10月17日放送より)