84歳の女性は「婚約者」の墓参りを続けていた…特攻隊員になった彼からの手紙に書かれていたこと
第二次世界大戦の末期、旧日本軍は航空機などで敵戦艦に体当たりする「特別攻撃隊」(特攻隊)を編成した。10〜20代の多くの若い兵士たちが自らの命を絶った。彼らを見送った人たちはどんな思いで戦後を生き続けたのか。宮本雅史さんの著書『「特攻」の聲 隊員と遺族の八十年』(KADOKAWA)から紹介する――。
■薄化粧をして隊員の墓参りを続ける
私がその女性と初めて会ったのは平成16(2004)年4月22日のことだ。女性は当時84歳。この日のことは今でも鮮明に覚えている。
岐阜県・御嵩町の自宅居間には、日本刀を片手に99式襲撃機に乗り込む特攻隊員の写真と位牌が飾られていた。終戦から60年近くなるが、部屋はほとんど手を加えていないという。使い込んだ蓄音機が机上に置かれていた。
「私たちは、あの人たちのお陰で生かさせて貰った。あの人たちの分まで生き抜かなければ……」
女性はこう言うと遺影に何度も手を合わせた。
訪ねた日は写真の特攻隊員の命日に近かったため、お墓参りをさせて欲しいと頼んだ。女性は「お墓参りして頂けるのですか。ありがとうございます。ちょっと待ってください」と言うと、部屋を出て行った。
10分程して戻って来た女性を見て、思わずあっと声を上げてしまった。薄化粧をして、きれいに身嗜みを整えているのだ。
■大雨の中、墓石をなでる
墓は村から離れた山中にあった。その日は大雨のためタクシーで向かったが、到着すると女性は傘を投げ出して墓に駆け寄り、両手で墓石を撫でながら「宮本さんという方が東京からあなたのことを聞きに来ましたよ。全部、お話ししますね」と念仏を唱えるように繰り返した。
激しい雨に打たれながら、墓石を撫で続ける女性の姿は記憶から薄れる事がない。
後日、女性からこんな手紙を頂いた。
(前略)御一緒にお墓参りして頂いてありがとうございました。それなのに、あのお墓参り、余りにもぞんざいだったので、後で気になりました。何時もはもっと時間をかけて碑のまわりを掃除して香をたいてろうそくの燃え尽きる頃までいて帰るのですが、何かもっと会話がある筈ですのに……あの時はタクシーを待たせてあったので、急いでしまって後で残念に思いました。
みどり深き夏草しげり碑は古りぬ
戦にゆきし人の奥津城
何年か前の作です。あれからまた、何十年か経ち六十年もなると言うのに 年齢のせいか最近は余計に思われる様になりました……
■小学校の同級生、婚約者、そして特攻隊員に…
女性は、第105振武隊の隊長として昭和20(1945)年4月22日、鹿児島県・知覧飛行場を出撃し、沖縄周辺海域で散華した林義則少尉(当時24歳、没後大尉)の婚約者だ。
小栗楓(戸籍上は楓子)。大正9(1920)年11月、岐阜県可児郡上之郷村(現・御嵩町)生まれ。林少尉は大正10年3月生まれで、二人は小学校の同級生だ。2年、3年、4年は同じクラスで、5年生の時に少尉が転校した。
少尉は岐阜師範学校二部を経て東京農業教育専門学校(現・筑波大学生物資源学類)に進むが、昭和17年に召集され、陸軍中部第六部隊(騎兵第3連隊)に入営。昭和20年4月5日付で第105振武隊の隊長となった。
楓が少尉と再会したのは特攻出撃の1年前の昭和19年3月23日。大刀洗陸軍飛行学校を卒業した少尉が、戦闘機の操縦士として訓練を受けるため満州に渡る挨拶に、楓が戸籍係として働いていた上之郷役場を訪れたのだ。
別れ際、懐かしさのあまり、
大空を御楯と翔ける雄姿にも
いとけなき日の面影残る
と書いた紙切れを渡した。
2日後、少尉から突然電報が届いた。
少尉の真意は分からなかったが、これをきっかけに1年間にわたる文通が始まる。手紙は軍隊調の簡潔な文面で、甘い言葉などは一言もなかった。
■1年間続いた文通
楓は、文言などから少尉の居所を推測、地図に向き合い一緒に空想の旅を始めた。手紙のやりとりは頻繁になり、「いつしか、会話しているような文面に変わっていった。一緒に呼吸をして、一緒に暮らしているような気持ちになった」という。
求婚の言葉はなかった。だが、一度、手紙に
と書かれていた。
少尉から最後の葉書が届いたのは昭和20年4月末のことだ。
「この葉書を読んだ時は、これでもう最後だと思った。私が本当に生きたのは昭和十九年三月から二十年四月までの一年間でした」
■戻ってきた指輪
林少尉の実家を通じて遺品が戻ってきたのは昭和20(1945)年4月末。冬用の軍服と時計にカメラ、満州で写した写真……。時計はいつも手に巻いて使った。時計の針の音が、少尉の鼓動のように聞こえた。
遺されし時計の刻む針の音は
脈拍のごと胸に伝い来
大事な遺品がある。百合の花が刻まれた銀製の指輪だ。少尉が送って来たシガレットケースのお返しに、楓は当時はめていた指輪を送っていた。それが遺品の軍服のポケットに入っていたのだ。百合の花は潰れていた。
「出撃するときに持って行ってくれればよかったのにと、悲しく思いました。百合の花は潰れてしまっていたけれど、この指輪があの人と一緒に動き、私の手元に戻って来たかと思うと、あの人のぬくもりが感じられます」
■戸籍抹消の朱線を自ら引く
遺品と一緒に両親宛ての手紙が入っていた。
とあった。楓を思いやる少尉の心が溢れている。二人の確かな絆を感じずにはいられない。
昭和20年10月、戦死公報が届く。役場で戸籍係をしていた楓は、自分の手で「林義則」の文字の上に戸籍抹消の朱線を引いた。
亡き人の数に入れるか今日よりは
戸籍の朱線胸に痛しも
「末期の水をとってあげる気持ちだった」
楓はその時の気持ちをこう振り返ったが、残酷なものだ。どんな思いで朱線を引いたのか。楓の悲しみを考えると、かける言葉がなかった。
■気が付けば手紙を待っていた
遺骨が届いたのはさらに一年が経った昭和21年6月。遺骨というのは名ばかりで、白木の箱だけだ。それでも、楓にとっては昭和19年3月23日に見送ってから2年ぶりの再会だった。
葬儀は村葬で盛大に行われたが、入籍していなかったため、親族の席には座れず、一番後ろで読経を聞いた。
祭壇に3首を短冊に書いて供えた。
一年を経て還り給いし君の御魂
全身をもて抱き参らす
待ち詫びし御魂還る日近ければ
心粧いぬ悲しみに堪えて
我を遺きて遂にゆきしか我を遺きて
武士道とふものはかくも悲しき
葬儀が終わった後も、「ふと、便りはどうしたのかしら」と思い、「あぁ、そうか」と気づく日が続いたという。
「手紙を待つ暮らしが習慣となり、気がつくと何十年も経っていました」
別れ際の楓の一言に、ただうなずく外なかった。
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宮本 雅史(みやもと・まさふみ)
産経新聞社東京本社編集委員
1953年、和歌山県生まれ。現在、産経新聞社東京本社編集委員。慶應義塾大学法学部卒業後、産経新聞社入社。司法記者クラブキャップ、警視庁記者クラブキャップ、バンコク支局長、東京本社社会部次長、社会部編集委員、那覇支局長などを務める。90年、ハーバード大学国際問題研究所の訪問研究員。93年、ゼネコン汚職事件のスクープで日本新聞協会賞を受賞。特攻隊戦没者慰霊顕彰会評議員、神風特攻敷島隊五軍神愛媛県特攻戦没者奉賛会顧問。本部御殿手真武会宮本道場を主宰。主な著書に、『報道されない沖縄』『少年兵はなぜ故郷に火を放ったのか』(以上、KADOKAWA)、『「特攻」と遺族の戦後』『海の特攻「回天」』(以上、角川ソフィア文庫)、『爆買いされる日本の領土』(角川新書)、『歪んだ正義』『「電池が切れるまで」の仲間たち』(以上、角川文庫)、『電池が切れるまで』(角川つばさ文庫)、『国難の商人』(産経新聞出版)、共著に『領土消失』(角川新書)などがある。
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(産経新聞社東京本社編集委員 宮本 雅史)