純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

写真拡大

1590年、秀吉は小田原征伐をもって天下統一を成し遂げた。が、奥州が蜂起して、これを鎮圧。すでに88年から刀狩を行っていたが、1467年の応仁の乱から百年以上、上から下まで、ほかの地方も全国が武士だらけ。いつほかでも反乱が起きるやもしれず、それを鎮圧しても恩賞の出しようがない。そこで、秀吉は、91年から朝鮮に出兵した。はたして勝つ気があったのだろうか。

その後も、過剰な武士の存在そのものが、最大の社会問題だった。1600年の関ヶ原、14年の大坂冬の陣、15年の夏の陣。それでも、有象無象の武士が策謀に走る。そして、1637年の島原の乱で、だいぶ始末したが、その後も武家諸法度を盾に、外様はもちろん譜代まで、二百家以上を、とにかく潰しまくった。そのそれぞれに陪臣や足軽がいたわけだから、この時期、所属の無い浪人が50万人もいた。それで、51年、軍学者、由井正雪が二千人もの浪人を集めて全国蜂起を企て、その発覚処断で、ようやく浪人の多くは仕官を諦め、帰農したり、内職をしたりするところに落ち着いた。

だが、幕末も同じことが繰り返された。1868年の江戸無血開城は勝と西郷の功績とされるが、後年、西郷はこれを深く後悔したと言う。あのせいで、侍が死ななすぎた、というのだ。71年の廃藩置県で大名を外しただけでも強烈な反発が起こっているのに、新政府の財政と軍政からすれば、元官軍であろうと士族を処分して、国民皆兵に切り換えなければならなかったからである。

73年、西郷が征韓論に固執したのも、とにかく国内から不平士族を追いやることが最大の目的で、秀吉同様、これで勝ち戦さをする気はなかったのかもしれない。しかし、大久保らの海外視察帰国組は、徴兵令が始まったばかりで練兵も軍制も整っていない状況での海外挑発は、負け戦さどころか、日本が列強の介入で植民地化されることを恐れ、これを潰した。結果、佐賀の乱、神風連の乱や萩の乱に続き、77年の西南戦争で、西郷が過剰な薩摩士族を引き連れて死んでいった。

太平洋戦争の末期も、あきらかに無謀な特攻が繰り返された。あれは、あれで勝つ気があったのだろうか。あれでほんとうに本土決戦を先ばしにできると信じていたのだろうか。それとも、すべての兵士、すべての軍艦、すべての戦闘機を費やし切ることによってのみ、日本は軍事的野心を断念して再生できると考えた西郷のような人物がいたのか。

戦後復興は鉄と石炭から、と信じて、命がけで働いてきた人々に対しても、その最後は、あまりにたいがいなものだった。あれだけにぎわっていた鉄鋼町、炭鉱町が廃墟になった。それで終わったわけではない。電器だ、自動車だ、と言って、企業城下町を成したが、工場の閉鎖、本社の売却で、人はちりぢりになった。鉄道やバス、百貨店も、時代を終えると、強引な業種転換で人を切った。そして、バブルでもてはやされた金融も、本社が統合し、支店はのみなみ閉鎖していっている。

その一方、その責任を氷河期に押しつけて死に損なった団塊世代が、老いの春、医療と福祉の山盛天国で、国力を喰い潰し、若者の結婚や子供の生誕の機会を消し去り続けている。だから、今後、少子化は必至で、不動産やマスコミ、学校も、過剰になるだろう。娯楽や外食なども、遠からず日本人には、その余力も無くなる。

だが、最後のブレイクスルーを賭けた一か八かの破滅的な突撃総力戦は、まず成功せず、後がもっとひどいことになる。技術水準、勤労意欲、資源環境からして、現在の日本の産業の過半は、国際社会で存続不可能になるやもしれない。だから、おだやかな帰農、地方に戻って清貧な自給自足に甘んじるようなソフトランディングを考えないと、また、暴力的に国民を追いやって産業調整をするような事態に陥りかねない。


火の城:西南戦争ミュージカルドラマ

純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元テレビ朝日報道局ブレーン