しなやかに歌い踊るケイのステージ

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 今から48年前の8月、ピンク・レディーは「ペッパー警部」でデビュー。メンバーのケイこと増田惠子(66)に、当時のことと直近の音楽活動について語ってもらった。【ジャーナリスト/神舘和典】

(全2回の第1回、文中敬称略)

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【写真】弾ける笑顔、鍛えた体…ピンク・レディー時代から進化を止めない60代のケイ

オリジナルのアレンジと振り付けで

 増田惠子がピンク・レディー時代からソロにかけてのナンバーを歌うショーを行う。タイトルは「増田惠子&KEI(ピンク・レディー)〜I Love Singing!! 2024〜」(8月12日ビルボードライブ大阪、8月24日ビルボードライブ横浜)。今回の目玉の一つは、オリジナル・アレンジとオリジナルの振り付けでヒット曲を披露することだろう。

しなやかに歌い踊るケイのステージ

「ミーと2人で歌うピンク・レディーのツアーは、もう14年やっていません。だから、ファンの方々が待っていてくれているように感じて……というのは、実はちょっと建前でもあって、ほんとうは私自身が当時の曲をオリジナルのまま歌って踊りたくなっちゃった」

 ケイは楽しそうに、うれしそうに打ち明けた。初対面ながら「増田さん」と言うのも何だか違和感があるため「ケイさんとお呼びしていいですか」と聞くと「どうぞどうぞ」とのことだったので、本稿ではケイと書くことにする。

 彼女はこれまでも、ピンク・レディーの曲をライヴのセットリストに入れていた。

「『UFO』のジャズ・バージョンとか『渚のシンドバッド』のボサノヴァ・バージョンとか。でもファンの方々の本心は、自分の好きな曲はオリジナルのイントロで一緒に歌って踊りたいんじゃないかな。ヒット曲ってリリースした瞬間から、歌う側だけではなくリスナーのもの、ファンのものでもあります。歌はその人の人生とかかわっているからです。そんな皆さんの思いに今回はお応えしたい」

歌手になれると信じていた

 1976年から1981年まで4年7カ月、ピンク・レディーは大旋風を巻き起こした。デビュー曲の「ペッパー警部」が60万枚の大ヒットになり、4曲目の「渚のシンドバッド」 から「ウォンテッド」「UFO」「サウスポー」「モンスター」は連続してミリオンヒットを記録した。そんなピンク・レディーはケイ自身が子どもの頃から抱いていた夢の具現だった。

「静岡にいた3歳頃から、私、歌手になる! って言っていたんです。ちあきなおみさん、いしだあゆみさん、奥村チヨさん……。歌謡曲の歌手の方々が大好きで、黛ジュンさんの『天使の誘惑』や朱里エイコさんの『恋の衝撃』を口ずさんでいる子でした。中学のときのマラソンでは、走りながら天地真理さんの『ひとりじゃないの 』を歌っていました。歌うと酸素をたっぷり取り込めて、ぐんぐん加速できたから。今考えると、歌手になれる可能性などほんのわずかです。でも、子どもの頃の私は、絶対になれると信じていました」

 中学3年生のとき、後にピンク・レディーでデュオを組む根本美鶴代と、必修クラブだった演劇部で出会う。のちのミーだ。文化祭で姉妹の役を演じ仲よくなり、同じ高校に。高校1年生の時、ヤマハのオーディションを受け合格。2人でヤマハのヴォーカルスクールに通った。

「高校3年生まで毎週日曜日、2人で東海道線の鈍行列車に揺られて浜松までレッスンに通いました。帰りはいつも終電です」

ギャラ3000円の時代

 デュオで歌うようになったのはヤマハの講師のこんな勧めからだった。

「2人は声質がまったく違うから、一緒に歌ったらすごくパワフルなハーモニーになると思うよ。それに芸能界に入っても仲よしの2人でいつも一緒ならば、怖くないでしょ」

 そのアドバイスにしたがって2人はデュオを組み、アマチュアながら祭りイベントに招かれて歌うようになる。

「ギャラはいつも1人3000円。でも、このまま続けていてもプロにはなれないと2人で話し合って、コンテストに挑戦しました」

 当時テレビでは歌手のオーディション番組がブームだった。フジテレビの「君こそスターだ!」では、“プロっぽい”という理由で落選。そこで日本テレビの「スター誕生!」では素朴な雰囲気を自分たちで演出した。それが功を奏して、レコード会社やプロダクション計8社から指名を受ける。1976年に作詞・阿久悠、作曲・都倉俊一による「ペッパー警部」でデビュー。怒涛のアイドル生活が始まった。

「1日の仕事をきちんと、穴を開けることなくやり切る。それをテーマに歌う毎日でした」

白米を食べた記憶がない

 当時、ピンク・レディーは眠る時間もない、食べる時間もないと報道されていたが、実際はどうだったのだろう。

「毎日朝から深夜までスケジュールがぎっしりと入っていて、お肉、お魚、お野菜のしっかりした食事をいただけることはほとんどなかったですね。一番忙しかった何年かは白米を食べた記憶がありません。移動のクルマにいつも用意していたバナナとリンゴと泉屋のクッキーを食べていました。テレビ番組ではお弁当が出ていたと思うけど、楽屋に届く前に次の現場に向かっていました。あの頃の私たちは、たぶん栄養失調だったはず。

 ベッドの上で眠れる時間は2時間くらい。ときどき3時間いただけたかな。いつも微熱があって、ステージの袖で、立ったまま眠っていました。それでも、歌って踊れることは嬉しかった。曲のイントロが鳴ると気持ちも身体もバーン! とスイッチが入ります。ステージのセンターに出ると、力があふれて、笑顔になる。歌って踊っているときは楽しくてしかたがないんですよ。そして歌い終わったら、すぐに次の現場へ急ぎます」

 忙し過ぎたから、ほかの歌手と交流することはなかった。舞台袖やテレビ局の廊下で挨拶をするのが精いっぱいだった。

「ずいぶんやせちゃったけど、大丈夫?」
「ちゃんと食べてる?」
「眠る時間はある?」

 芸能界の先輩たちは気遣ってくれた。

「大丈夫です!」

 元気に答えていた。

盲腸の傷口にガーゼを詰めて舞台へ

「ピンク・レディーとして歌っていたのは私が10代から20代にかけての頃です。幼い頃からの『歌手になる』という夢を叶えられた喜びで、睡眠不足や食事をとれないことなんてへっちゃら。ただ、パフォーマンスの準備に時間をとれないことが一番の悩みでした。年に3回、全国をまわるコンサート・ツアーがあって、毎回セットリストを変えるんです。でも、練習する時間がなく、自分がしっかり覚えられたのか不安で、本番前はいつも心臓がバクバク鳴っていました」

 そんな生活の中で、ケイはついに倒れる。

「腹膜炎で盲腸が破れて、緊急手術をしました」

 ドクターには2週間入院するように言われたが8日で退院。ピンク・レディーとして初めての日本武道館公演がひかえていたのだ。

「手術した傷口は縫わずにガーゼを詰めて、身体をラップでぐるぐる巻きにしてステージに上がりました。1日3回患部に詰めたガーゼの交換はものすごく痛かったけれど、ステージに上ると不思議と感覚がまひして、いつも通り歌って踊れました。あの危機を乗り切ったことで、その後の人生では何に対しても動じなくなりましたね」

 そう語るケイは、明るく、そして若々しい。その若さの最大の秘訣は、幼い頃からの夢を叶え、いまだにその仕事を続けられていることではないか、と本人は言う。

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 第2回【「50年目のピンク・レディーのステージは」 ケイが語った意外な「最も思い入れのある曲」】では、「陰のある暗い役しか来ない」と悩んだこともある俳優業についても語る。悩みを打ち明けられた大林宜彦監督の返答とは?

神舘和典(コウダテ・カズノリ)
ジャーナリスト。1962(昭和37)年東京都生まれ。音楽をはじめ多くの分野で執筆。『不道徳ロック講座』など著書多数。

デイリー新潮編集部