「おー、立派に育った大物!」

 ビビりまくっている帆浦を横目に、彼氏はなぜか感心している。

 相手がゴキブリじゃなければ「立派に育ってくれて、お母さんも嬉しいだろうね!!」とかツッコんでいるところだが、今はそれどころではない。一刻も早くこの絶望的な状況を打破しなければ。

◆「そこのメニュー表とって」彼氏がとった独特な撃退法

 しかし、殺虫剤もハエ叩きもないこの部屋で、どうやってヤツを退治すればいいのか。スリッパやティッシュ箱の裏で叩いたらラブホの備品が汚れてしまうし、そもそも予測不可能な動きを繰り出されるんじゃないかという恐怖で、1ミリもヤツに近づくことが出来ない。

「どうしよう!?」と帆浦がオロオロしていると、彼氏がおもむろに部屋の隅にあったゴミ箱を掴んで、ゆっくりとゴキブリに近づく。

「ほっ」

 素早く上からかぶせて閉じ込め、次の指示を出す。

「そこの棚にあるメニュー表をとって」

 メニュー表なんか何に使うんだ…? と思いながらも言われたまま渡すと、彼氏はまるで丁半博打の壺振りのように、ゴキブリの上に被せたゴミ箱を激しくゆすり始めた。なるほど、ゴミ箱とメニュー表で挟みこんでそのまま外に投げ出す作戦だ。だが、元気いっぱいなままのヤツを閉じ込めようとしても、うっかり隙間から逃げだされる可能性があるから、あんなにゆすって動きを鈍らせようとしてるんだ! 突如始まる人間VSゴキブリのフィジカル対決。だが、相手は人間より遥か昔から存在し続ける強敵。そんな簡単にくたばるとは思えない。

 ひとしきりゴミ箱をゆするとピタッと動きを止めた彼氏。小さく息を切らしているが、そんな強度の運動だったか? 「お前さん、なかなかやるじゃねえか」とでも言いたげな顔でゴミ箱を見つめている。一体何を見せられているんだろうか。いよいよ、ゴミ箱の下にメニュー表をゆっくりと滑らせる彼氏。かなり離れた場所からハラハラしながら見守る帆浦。緊張の一瞬。

「……ふはっ」

 突然、彼氏が笑いだす。何が起きているのか分からず、ゆっくりと近づいて恐る恐る覗き込むと、メニュー表の上には散らばるゴキブリの足があった。な、なるほど……素早く走る自慢の足が千切れてしまっては、逃げるにも逃げられないはず。心底ゴミ箱内の状態は確認したくないけど……。

「足チョンパしちゃった、ごめんね」

 申し訳なさそうにゴキブリだったものに謝る彼氏。全力でぶつかり合った戦友のことだ、ゴキブリもきっと許してくれるだろう。それより私は今すぐにでもこの部屋を出たいな、ごめんね。

 結局その後、連絡していたラブホのスタッフさんが来てくれたので、処理はお任せした。スタッフさんは、部屋の中の不思議な状態のゴミ箱とメニュー表を見て首を捻ったのだろうか、それとも、彼氏と同じように可笑しくなってしまって笑っているのだろうか。どちらにせよ、お店の備品であるメニュー表をあんな用途で使ってしまって申し訳ない気持ちでいっぱいではある。ラミネートされていたのがせめてもの救いだ。

 それ以来、帆浦はこのラブホを“Gホテル”と呼び、恐れるようになった。真冬の寒い日以外は訪れることがなくなったが、どうしても他に空き部屋が見つけられず、泣く泣く恐怖に慄きながら再訪した夏の日もあった。そして不思議なことに、こんな目に遭いながらも、我々は同棲初日を迎えるまで予約するということを全く覚えなかった。

◆夏のラブホテルでは様々なスリルにご用心

 ラブホを訪れる時は、知り合いに見られたらどうしようとか、考えてしまうものだが、そんなハラハラドキドキのスリルすらも、一夜を楽しむための要素だろう。

 でも、一歩部屋に足を踏み入れたその瞬間には、また違った意味でのスリルが潜んでいるかもしれないということを、ほんの少しだけ覚えておいてほしい。

<文/帆浦チリ>

―[ラブホの珍エピソード]―