池上季実子、厳しかった父に黙って女優デビュー。大ブレイクした『愛と誠』決定後には初めての反抗「私はこれをやるの!やりたいの!」

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歌舞伎役者の八代目坂東三津五郎さんを祖父に持ち、アメリカ・ニューヨークで生まれた池上季実子さん。

1973年、中学2年のときにNHKのスタジオ内でスカウトされ、翌年『まぼろしのペンフレンド』(NHK)で女優デビュー。同年『純愛山河 愛と誠』(テレビ東京系)の早乙女愛役で大ブレイクした。

1983年に公開された映画『陽暉楼』(五社英雄監督)で第7回日本アカデミー賞優秀主演女優賞、1988年には映画『華の乱』(深作欣二監督)で第12回日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞し、妖艶な美貌と確かな演技力を兼ね備えた実力派女優としての地位を確立。

現在、映画『風の奏の君へ』(大谷健太郎監督)が公開中の池上季実子さんにインタビュー。

 

◆芸事や習い事は禁じられ…

商社マンの父親と八代目坂東三津五郎さんの次女である母親の長女としてニューヨーク・マンハッタンで生まれ、1歳下の弟と家族4人で3歳のときに帰国。京都にある祖父の家で暮らすことになったという。

――デビューされたとき、ニューヨーク・マンハッタン生まれということが話題に。

「あの頃は帰国子女って珍しかったですからね。でも、パスポートにボーンプレイス:ニューヨークシティ・マンハッタンって書いてあるのは、向こうの方たちにもすごいって言われます。『本当にアメリカ生まれなの?』ってニューヨーカーが意地悪言うから、パスポートを見せるとビックリされます。『本当だ』って(笑)。

ニューヨーカーだと言っても、ほとんどニュージャージーだとかブルックリンだとか、クイーンズシティとかで生まれた方たちが多いんです。だけど、私がマンハッタン生まれだとわかると、みんな急に態度が変わる。いきなりリスペクト。『そんなことでリスペクトされちゃうの?』みたいな感じ。アメリカ人っておもしろいですね(笑)」

――八代目坂東三津五郎さんのお孫さんということも大きく取り上げられました。

「今だったら歌舞伎関係の女優さんがいっぱいいますけど、当時はあまりいなかったですからね」

池上さんは小学校卒業後、両親が別居することになり、母親と弟とともに東京に引っ越すことになったという。

「父と母がケンカばかりしていたから、3歳年上のお兄ちゃん(従兄の五代目坂東八十助さん=十代目坂東三津五郎さん)の家に居候して、そこから学校に通っていて。夜はおじちゃんとおばちゃんが早く寝ちゃうので、お兄ちゃんとその姉妹と私の4人で、いつもおこた(コタツ)に入っておしゃべりしていました。

私が髪の毛を長く伸ばして大事にしているのをみんな知っていたから、お鍋とかで昆布が出ると、『ほら季実子、昆布だぞ』っていう感じで。『お兄ちゃん、シャンプーのコマーシャルに出るとシャンプーがいっぱいもらえるの?』って聞いたら『もらえるよ』って言われて。

チョコレートが好きだったから、『チョコレートのコマーシャルをやったらチョコレートがいっぱいもらえるの?』って聞いたら『もらえるよ。季実子はコマーシャルがやりたいんだ』って言うから、『別にコマーシャルがやりたいわけじゃない。チョコレートがいっぱい欲しいだけ』って言って、みんなで笑っていましたね(笑)。

あるとき、お兄ちゃんが『明日NHKでドラマの撮影があるけど、見に来る?』って言ったんですよ。当時は今と違ってスタジオで見学できたので見ていたら、知らないおじさんに『おもしろい?興味ある?』って声をかけられて。『すごくおもしろい』って言ったら『次の番組に出てみない?』って言われたんです。

そのおじさんは番組のプロデューサーだったのですが、お兄ちゃんと私が従兄だって知らなかったからビックリしていました(笑)。ですから、そのときはお兄ちゃんのマネジャーがマネジメントしてくれました。

両親のケンカの原因はお金だったので、私は早く自立しなくてはと思っていました。母はお嬢さん育ち、父は厳しい家に育っている人でしたから金銭感覚が違ったんですよね。

ですからしょっちゅうケンカしていたし、父は私と弟にも手を上げていましたから、毎日ビクビクしていました。父は芸事や習い事は一切嫌っていましたし、私は否定されるような扱いを受けていたので、これは自分で食べていくことを考えなきゃいけないなと思っていて。とにかくやってみようみたいな感じでした。何かで認められたかったんだと思います。

私は絵が好きでよく描いていましたけど、好きなのと才能があるのとは違うということもわかっていて、絵では食べていけないなって。画廊で働くかなとか思っていたから、ちょっとドラマをやってみたらおもしろくて、すぐにお芝居に恋をしちゃったの(笑)」

※池上季実子プロフィル
1959年1月16日、アメリカ合衆国・ニューヨークシティ・マンハッタンで出生。3歳で日本に帰国して京都で暮らし、小学校卒業後、東京在住。1974年、『まぼろしのペンフレンド』(NHK)でデビュー。『純愛山河 愛と誠』(テレビ東京系)、映画『HOUSE』(大林宣彦監督)、映画『化粧』(池広一夫監督)、映画『危険な女たち』(野村芳太郎監督)、『男女7人夏物語』(TBS系)、『名奉行遠山の金さん』シリーズ(テレビ朝日系)などに出演。『不倫調査員・片山由美』シリーズ(テレビ東京系)をはじめ2時間ドラマ主演作も多数。映画『風の奏の君へ』が全国公開中。

 

◆初めて父親に反抗「私はこれをやるの!」

池上さんは『まぼろしのペンフレンド』でデビュー後、すぐに銀河テレビ小説『灯のうるむ頃』(NHK)に出演。そして、大人気漫画原作のドラマ『純愛山河 愛と誠』でヒロインを演じることに。

――お父さまはかなり厳しい方だったみたいですが、芸能活動を反対されませんでした?

「大変でした。でも、小学校卒業後、母が私と弟を連れて東京に出てきて、父は関西にいて、月に1回か2回東京に出てくるという別居状態だったので、ドラマに出ることを父が知ったときにはもう決まっていたし、NHKだからということで最初のうちは黙っていましたよね。

だけど『愛と誠』が決まったときには大変でした。話をするという感じじゃないんですよ、何でもかんでも怒鳴ってくるから。

でも、初めて『私はこれをやるの!やりたいの!』って父に口答えしたんです。口答えできて叫んだんです。それまで怖くてそんなことはできなかった。その父に私が初めて反抗したものだから父もビックリして『勝手にしろ!』って出ていっちゃった」

――記者発表も大々的にした後ですか?

「そうです。記者会見すると急に言われて。だから親にも相談してないし、私は一張羅のアイビーのワンピースを着て、ソックスにコインローファーを履いて…という学校に行く格好で記者会見に行ったんです、すっぴんで(笑)。

そうしたら、すごいマスコミの人で、そこからいきなり人生が変わっちゃったみたいな感じでした」

――デビューされて次々に出演作品が続いて。

「そうですね。『愛と誠』もNHKの推薦で行ったわけだし、そんなこととは知らずに行ったら、ありがたいことに女優の道に転がっていっちゃったという感じでしたね。

14歳で最初に『まぼろしのペンフレンド』に出たときに、素人でド下手だったけどお芝居をすることがおもしろくて、『これはどういう風に笑ったらいいんですか?』とか、『どういう風に話したらいいんですか?』とか演出家に質問攻めでした。

普通はそんなこと聞かないでしょう? 『笑って』と言われたら普通に笑って。私はいちいち色々質問していたからスタッフたちが、『おもしろい子だな。素人のくせにこんなに色々質問したりする子っていないよな』ってスタッフルームで話していたのを銀河テレビ小説のスタッフが聞いて、収録を見にいらしていたみたい。

私はもう『まぼろしのペンフレンド』でお芝居に恋しちゃっているから、銀河テレビ小説に転がっていくのは、私の中では全然違和感はなかったですね」

――おじいさまが(八代目)三津五郎さんですし、そういう資質もあったのでしょうね。

「今思うとあったと思います。だって、監督がこうしてって言うと、すぐにできたから。そういう勘は鋭かったみたいですね。下手だけど、言っている意味がすぐにわかってできちゃうから、それがすごく不思議だったみたいです。

幸せな役よりも不幸な役のほうが多かったし、個性の強い役とかが多かったですね。でも、それはうちの両親が色々すったもんだをずっとやってくれていたので、物心ついた頃からいろんなことがあって、そういう人間模様をずっと見ていたから、それで感性が研ぎ澄まされたというのかな。

いろんな意味で敏感になって、身についたものがいっぱいあると思うんですよね。それが毎日のことでした。ある意味、親に感謝かしら?(笑)

『この空気まずいな』と思ったら、弟を連れて違う部屋に行ったり、『これは母が殴られる』と思ったら、パッと間に入って止めたり…。そうやって、いつも人の顔色を見たり、人の表情を見たりしていました。両親だけじゃなくね」

――おじいさまは、池上さんが女優さんのお仕事をされることに関して何かおっしゃっていました?

「その当時、『週刊平凡』に芸能で二世代とか三世代を扱ったページがあって、それに祖父と私が出たんです。それで、七代目の三津五郎、私の曾祖父の写真を祖父と二人で見ている写真を撮ってもらって。

そのとき記者の方が祖父に『お孫さんに何かメッセージは?』って聞いたら、『役者というのは親の死に目にも会えないから、そのつもりで覚悟してやんなさいね』って言われたんです。

それで、私は『じゃあ、おじいちゃまに何かあっても季実子はお仕事があったら行っちゃいけないの?』って聞いたら、祖父が『そのときはお仕事に行きなさい。それが役者だよ』って言ったんです。それが祖父との最後になってしまって…。翌年の私のお誕生日、1月16日に亡くなりました」

1975年1月16日、人間国宝にも認定された八代目坂東三津五郎さんは、京都南座に出演中、フグの肝による中毒で急逝。68歳だった。

 

◆「健さんの手は大きくてあったかくて」

『純愛山河 愛と誠』の放送が始まると大人気となり、1クール(3カ月)の放送予定だったのが、さらにもう1クール延長された。池上さんは若手トップ女優として注目を集め、次々と出演作が続いていく。

1977年、大林宣彦監督の劇場用映画監督デビュー作『HOUSE』で映画初主演。ヌードシーンにもチャレンジした。

――「今までのイメージを変えたかった」と言ってヌードに、すごく度胸のいい方だなと思いました。

「そう言うしかないですよね。『ヌードになる必要があるのかな?』って思っていたから(笑)」

その翌年には『熱中時代』(日本テレビ系)に出演。北海道から東京の小学校に赴任した北野広大(水谷豊)の妹・青空役を演じた。

「青空は女優を目指して上京するという設定でしたけど、水谷さんとは本番以外でも『お兄ちゃん』、『青空』って呼び合っていて、本当の兄妹のようでした。あのドラマでは、水谷さんの語尾を延ばす独特の口調が人気になりましたよね。

あれは、初日に北海道ロケに行って水谷さんと二人で出番を待っているときに、『北海道の人ってこういうしゃべり方なんだよ。こういうしゃべり方にしたいな』って言ったら水谷さんが『いいなあ、それ』って言って、語尾を延ばすしゃべり方になったんです。だから、専門家に方言指導を受けたわけじゃなくてオリジナルの方言でしたけど、とても楽しかったですね。

15年くらい前だったかな。当時のマネジャーと六本木のミッドタウンにある喫茶店で打ち合わせをしていたときに、隣のテーブルに座ってチラチラ見ている男の人がいたんです。結構重要な話をしていたからイヤだなあって思って見たらなんと水谷さんでした。

『お兄ちゃん』って言ったら『青空、ようやく気づいたか』って(笑)。そういう気さくな方なんですよね、水谷さんは。二人で大笑いしました」

同年、高倉健さん主演映画『冬の華』(降旗康男監督)に出演。健さん演じる主人公・加納秀次は関東のヤクザ組織の幹部。自分が殺した相手の娘(池上季実子)に伯父だと身分を偽り、彼女の成長見守っていたが、再び義理によって人を殺すことに…という展開。この作品で池上さんは、熊本映画祭の日本映画女優賞を受賞した。

「健さんがいらっしゃるときはみんなすごいんですよ。ビシッと直立、完全にリスペクトしていて。私は16、7でヤクザ映画も知らなかったけど、『この方はすごい方なんだ』ということはわかりました。

最初に会ったとき、健さんは椅子に座っていらしたのだけれど、パッと立ち上がって『高倉です、よろしく』って、私みたいな小娘にご挨拶してくださって。本当にすごい方だなと思いました。

あと、健さんの手がいい意味でシワがあって分厚くて、私は好きでした。『健さんの手は大きくてあったかくてステキですね』って言ったことがあります。健さんは笑ってらしたけど」

 

◆真っ黒だった東京湾に投げ落とされて

1979年、映画『太陽を盗んだ男』(長谷川和彦監督)に出演。この作品は、自ら製造した原子力爆弾で政府を脅迫する男・城戸誠(沢田研二)の孤独な闘いを描いたもの。池上さんはラジオの人気DJで、誠とともに逃げる途中、刑事が撃った銃弾で命を落とす沢井零子役を演じた。

「あの作品は、3日間徹夜で撮影ということもあったりして大変でした。私は銃弾が当たって死んで、その遺体をジュリー(沢田研二)が抱っこして、高さ8メートルくらいの堤防から東京湾に投げるんだけど、当時は海水がヘドロで真っ黒だったんです。

ダイバーも救助船も用意してなかったし、お風呂もない。うちのマネジャーがブチギレて、『冗談じゃない。投げ方によっては(ブロックに)当たっちゃうかもしれない。死んだらどうするの?こんなことはやらせない!』って。

彼女が頑張ってくれたおかげで救助船を用意することになって、お風呂も借りられることになりましたけど、頭から足の先までヘドロだらけで大変でした(笑)」

同年、大河ドラマ『草燃える』(NHK)に出演。その後、『おんな太閤記』、『徳川家康』、『武田信玄』と大河ドラマの出演も続いていく。

1984年、映画『陽暉楼』(五社英雄監督)に出演。この作品は、大正時代、西日本一を誇る土佐の高知随一の遊興の場・陽暉楼を舞台に、そこで芸妓同士が火花を激しく散らし合い、繰り広げられるさまざまな人間模様を描いたもの。池上さんは「100年に一人出るか出ないかの芸妓」と言われる陽暉楼のNo.1芸妓・桃若(=太田房子)とその母親の娘義太夫・豊竹呂鶴の二役を演じ、第7回日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞した。

「『女優として一皮むけた』と言われるようになって、『陽暉楼』はやっぱり転機でしたね」

――浅野温子さん演じる珠子とダンスホールのトイレでびしょ濡れになりながら取っ組み合いのケンカをするシーンも話題になりました。

「そうですね。浅野さんに髪を引っ張られる場面では本気で引っ張られて本当に痛かった。髪の毛って痛いんですよ。でも、私も彼女の頬を思いっきり張り手する場面では、本当に叩いて、手の跡がついてしまいましたけどね(笑)」

――艶やかな色香と美貌も際立っていて「恋多き女」と称されていましたね。

「あの頃はマスコミもひどかった。私は、1カ月に13人と熱愛って書かれましたからね。その中には私の弟もいて、『弟だ』と言ったのに目のところを犯罪者みたいに黒く隠して『新恋人』って書かれてしまって。

今みたいに、インスタとかブログで自分の思いを伝えられないから、結局書かれ放題。『肉体の構造』なんて勝手に書かれてすごく傷ついた。私は『訴える!』って言ったんですよ。

そうしたらマネジャーが『訴えたりしたら、他社がそれを聞きに来るからやめなさい。余計また色々書かれることになるから』って。『何でここまで言われて私は我慢しなきゃいけないの?』って頭に来ました。

あれで私はストライキしたんです。『勝手に私の人生書くなよ!もう仕事しない』ってブチギレちゃって半年間ストライキ。それで、『だったら自分で人生変えてやる!絶対にマスコミにバレないように結婚してやる!』と思って結婚しちゃったんですから。あれがなかったら結婚してなかったかもしれないですね(笑)」

1985年、池上さんは10歳年上の古物商を営む男性と結婚。一女をもうけるが3年後に離婚。シングルマザーとして子育てをしながら『男女7人夏物語』、映画『華の乱』など多くの作品に出演することに。

次回は、撮影エピソード、今も後遺症に悩まされている海外での番組収録中に起きた大事故についても紹介。(津島令子)

メイク:大野志穂
スタイリスト:森本美砂子