江川卓、二度目のドラフトはクラウンが強行指名も拒否 大物政治家を巻き込む「大騒動」へと発展した
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江川卓の大学ラストとなる1977年秋季リーグ戦で、法政大は10勝1敗1分で史上4度目となる4連覇を達成。しかも全大学から勝ち点を奪う完全優勝での4連覇は、史上初の快挙だった。
江川のラストシーズンの成績は、9試合(81イニング)に登板して6勝2敗1分、防御率1.11、失点10、奪三振51。大学3、4年で"超人"の異名を取るまでになった江川は、期待どおりの活躍で順調に勝ち星を重ねていった。
このラストシーズンは江川らしいというか、ちょっとした出来事があった。
10月22日、江川は大学最後の登板と決め、明治大を散発5安打、4対0で完封勝利を収めた。試合後のコメントで、「大学4年間、大きなケガもなく過ごせて満足しています。今日で僕の大学野球は終わりました。最多勝利に及ばなかったが、自分の計算では1勝多かったくらい。明日はほかにもたくさん投手がいますし、出番はないと思います。僕の勝ち星はこれで結構です」
あと1勝で山中正竹(法政大)が持つ東京六大学リーグの通算勝利記録(48勝)に並ぶところを、江川は翌日の登板を拒否。同期のサウスポー・鎗田英男に先発を譲った。プライベートでもよく一緒にいた鎗田が、当時を振り返る。
「高校時代は"お山の大将"だったから、自分が一番だと思うじゃないですか。でも大学に行くと、嫌でも現実に直面しました。上には上がいるな、と。それが江川でした。江川から記録の話は聞いたことないですが、自分が降板してから誰が投げたのかすべて覚えているんです。だから47勝は、自分ひとりの勝ち星ではないって強く思っているんです」
明治戦で鎗田は初の完封勝利を挙げて胴上げ投手となり、有終の美を飾った。
じつは高校時代にも同じようなことがあった。3年春のセンバツ大会2回戦の小倉南(福岡)戦で、江川は7回を投げ終わると監督に頼み込み、次の回から控えの大橋康延にマウンドを譲っている。
大会通算の三振記録を狙うのならばそのまま続投するが、江川は自分の記録に興味などない。だから六大学リーグの通算勝利数記録にあと1と迫っても、江川は記録のためにマウンドに上がることはなかった。
江川は高校時代から自分ひとりで勝つのではなく、チーム一丸となって勝利することを求めた。それでも江川の圧倒的なピッチングの前に相手は手も足も出ず、ワンマンショーになることは多々あった。
江川の大学4年間の通算成績は、71試合登板で47勝12敗、防御率1.16、奪三振443。神宮の杜でも"怪物"の名に恥じない快投を続け、法政大の黄金時代を築いたのだった。
1977年12月3日、記者会見でクラウンへの入団拒否を表明する江川卓(写真左) photo by Sankei Visual
二度目のドラフト会議が近づくにつれ、また江川の周辺が騒がしくなる。高校3年だった4年前も、阪急から1位指名を受けた。この時はプロ志望ではなく、大学進学を公言していた矢先の指名だっただけに、江川サイドも驚くしかなかった。阪急としては、急転直下のプロ入りを狙っての指名だったが、江川の意思は固く、入団交渉は早々に終結した。
だが今回は違う。大学4年の間に、三振を狙いにいくピッチングを封印し、少ない球数で打ちとる老獪なピッチングを身につけた。本気で完全試合やノーヒット・ノーランを狙えば、一度くらいは実現できたであろう。それをしなかったのは、肩に負担をかけないためだ。
そうして迎えた11月22日、運命のドラフト会議が始まった。この頃のドラフト会議は指名順位抽選方式で、まずその年のペナントレース下位チームから予備抽選のクジを引き、本抽選の順番を決める。1位指名の重複は認められず、一度指名された選手は指名できないルールで、2巡目以降の指名順位は折り返しとなる。
つまり最初の1位指名は、この年のドラフトナンバーワンの称号を与えられるというわけだ。
1977年のドラフトは、クラウン(現・西武)が予備抽選で1番を引いて、巨人は2番だった。ドラフト前、江川は在京球団希望で、クラウンは一番行きたくない球団という情報が入っていた。そうしたこともあり、会場内では巨人が江川を指名するのだろうという雰囲気が漂っていた。
だが、クラウンが江川を強行指名。これはオーナーの中村長芳の強い意向でもあった。
中村は同郷・岸信介(元首相)の筆頭秘書から72年にプロ野球の経営に乗り出し、パ・リーグ5回、日本シリーズ3連覇の西鉄ライオンズの経営危機に伴い球団を買収し、福岡野球株式会社を設立した。太平洋クラブと5年間のスポンサー契約を結び、その後釜として77年からクラウンライターが新たなスポンサーとなった。
親会社をつけず、年間数億円のスポンサー契約だけで運営しているのは、12球団のなかでクラウンだけだった。
本拠地・平和台球場の平均観客数は約5千人で、福岡大のグラウンドを間借りして練習するなど極貧球団であり、毎年身売り話が出ていた。
クラウンとしては、江川を獲得することで経営の立て直しができると判断したのも無理はない。一方で、西武への球団譲渡の話も水面下で動いており、江川卓という付加価値の高い選手がいれば、より高く売れるという算段があったとも言われている。
いずれにしても、江川はクラウンから指名を受けた。ただ、法政大野球部同期の金久保孝治によれば、「別にクラウンに絶対行きたくなかったわけではなかった」と証言するように、江川自身も最初から断固拒否ではなかった。
これはリップサービスなのだろうが、「クラウンはバランスの取れたいいチーム」「福岡も住めば都」といった類の発言もしている。その一方で、「巨人に行きたい」とはひと言も発していない。
結局、親族が商売をやっている関係上、九州のチームは遠すぎるということで、12月3日に会見を開き、クラウンライターライオンズへの入団拒否を示した。
そして自民党副総裁で作新学院の理事長でもある船田中(ふなだ・なか)が、江川の後見人になった頃から、話はきな臭い方向へと進んでいく。クラウンの指名は、"江川騒動"の序章にすぎなかった。
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している