高山郁夫の若者を輝かせる対話式コーチング〜第6回

 オリックスのリーグ3連覇を陰で支えた投手コーチ・高山郁夫さんに指導論を聞くシリーズ「若者を輝かせるための対話式コーチング」の第6回。今回のテーマは「ブルペンコーチ」。2007年のソフトバンク一軍ブルペンコーチ時代の経験とプロ野球選手が慢性的に抱える「不安」について、語ってもらった。

【外国人投手との接し方】

── 高山さんはコーチとしてソフトバンクに入団して2年目の2007年に、二軍投手コーチから一軍投手コーチ(ブルペン担当)に配置転換されています。ブルペン担当コーチとは、どんな役割を担うのでしょうか。

高山 ベンチとのやりとりのなかで、どの投手を準備させるべきか、休ませるべきかを判断する役割でした。ただし、試合の局面は急に変わるので、難しかったですね。私は「今日は投げない」というピッチャーに関しては、「ボールすら持たせたくない」と考えていました。

── リリーフ投手はブルペンで、どれくらい投げて準備するのでしょうか?

高山 今では登板する直前に1回だけブルペンで準備する「一発づくり」のチームが増えていますが、2007年の頃はブルペンで2回つくる投手が主流でした。たとえ試合が動いていなくても、試合序盤にキャッチャーを座らせて10球程度投げるピッチャーも結構いました。その準備がないと、不安があるからです。

── 一発づくりと比べれば、リリーフ投手の負担は大きくなりますね。

高山 1年間トータルで考えると、蓄積された疲労がたまっていきます。だから私は、無駄なボールを投げさせたくありませんでした。

── 高山さんがその考えに行き着いたきっかけは何だったのでしょうか。

高山 西武でプレーした現役時代の1984年と1986年に、アメリカでプレーした経験がありました。当時、西武の若手選手たちは4〜9月はカリフォルニアリーグ(シングルA)、秋にはアストロズの教育リーグに派遣されることが多かったんです。アメリカの文化に触れてみて、日本とは考え方がまるで違って戸惑いました。向こうのコーチからは「無駄なボールを投げるな」「試合前に疲れることをするな」と厳しく言われました。とにかく球数と登板間隔を管理されて、すごかったですね。こちらはボールを握っていないと不安なんですけど、キャッチボールをしたり走ったりすると「勝手なことをするな」と怒られる(笑)。ブルペンで投げる時間を「8分間」と決められたこともありました。立ち投げをしたら5分くらい過ぎてしまって、捕手を座らせて10球くらいしか投げられないこともありました(笑)。

── それは相当なカルチャーショックでしたね。

高山 アメリカのコーチからすれば、「日本人は投げすぎ、走りすぎ」という感覚なんです。コーチをするうえで、アメリカ留学の経験は本当に大きかったですね。日本にやってくる外国人投手のことも理解できるようになりましたから。

── 高山さんはブランドン・ディクソン(元オリックス)など、外国人投手から慕われていたイメージが強いです。

高山 日本人の感覚からすると、「外国人はなんでこんなに投げないの? 練習しないの?」と感じてしまうはずです。でも、彼らは文化も考え方も、まるで違うものを教わってきているわけです。日本野球に順応してもらうのは当然ですが、彼らの根本的な部分を理解してやらなければいけません。だから私は「アメリカの野球からすると、日本の野球はびっくりするだろ?」と寄り添うところからスタートしていました。ただでさえ異国の地で孤独感を覚えるなか、プライドを持った人間が新しい文化になじんでいくのは大変です。私は自分のアメリカ留学体験から、彼らの不安を理解しているつもりでした。

── 外国人選手からすると、自分の戸惑いを理解してもらえるだけで安心できるでしょうね。

高山 一方通行のコミュニケーションにならないように気をつけていました。実際に「キミの考え方を尊重しているよ」というスタンスで接していると、向こうから悩みを打ち明けてくれるようになるんです。

── どのような悩みが多かったのでしょうか?

高山 スライドステップ(クイックモーション)やサインプレーの多さですね。MLBはランナーが二塁に進もうが、「ホームに還さなければいい」という考え方。また、打者と力と力の勝負をする文化ですから、バントを多用したり相手を揺さぶろうとしたりする日本野球とは質が違いました。もちろん、最終的には「ベースボールと野球は違う」と理解してもらわないと、日本では活躍できません。プライドが許さず、「こんなのベースボールじゃない」と自分を変えられない選手は、残念ながらすぐに帰国していた印象です。でも、それも人それぞれの価値観ですから仕方がありません。


2007年に45試合に登板して5勝、19ホールドをマークした水田章雄 photo by Kyodo News

【一軍で活躍できる投手の共通点】

── 外国人選手に限らず、高山さんのコーチングは選手それぞれの立場を理解するところから始まっています。

高山 プロ野球は厳しい世界ですから。数字を残せなければ「もういい」と言われる1年単位の契約社会で、毎年不安でしょうがないわけです。「こんな選手になりたい」と思い描いていたイメージどおりの野球人生を送れる選手はごく一部で、周りと自分を比較して焦り、戦力外通告を受けて去っていく選手を見送って不安にかられる。そんな厳しい世界だからこそ、選手には少しでも成功する可能性を広げるための練習をしてほしいと考えていました。

── プロ野球選手も人間ですから、いつも不安と隣り合わせで戦っているのですね。

高山 ただでさえストレスがかかるなかで、ブルペンでよけいにプレッシャーをかけても仕方がないわけです。とくに一軍のリリーフ陣は競争に勝って、チームの代表としてブルペンにいるのですから。こちらが「使える」と思って起用しているので、できる限り気持ちよく投げてもらいたいんです。

── 高山さんがソフトバンクの一軍ブルペン担当になった2007年は、水田章雄投手が中継ぎでブレイクしています。当時プロ9年目、34歳と遅咲きの右腕でした。

高山 水田は、気持ちのやさしい選手でした。能力はあってもなかなか結果が残せず、一軍に定着できずにいたんです。当時の水田はストレート、フォーク、カットぎみのスライダーが配球の軸。当時のプロはカット・スライダー系のボールが変化球の主流になっていて、カーブを投げる投手が少なくなっていました。そこで水田に「カーブを投げられないか?」と聞いてみたら、ヒジを柔らかく使って縦割れのいいカーブを投げたんです。このカーブを使ったほうがいいと話しました。

── ほかの投手にはない特徴を見つけたわけですね。

高山 あとは「インコースのストレートを使おう」という話もしました。一軍で活躍できる投手の共通点は、インコースを突けること。たとえ球威が乏しくても、インコースを攻めることができるから一流になった例はたくさんあります。私の知る限り、右打者のインコースを突かずに先発ローテーションで活躍した右投手は金子千尋(元オリックスほか)くらいです。

── 水田投手もインコースを投げる練習をしたのですね。

高山 インコースに投げるのは、勇気がいるんです。ユニホームをかすったらデッドボールになってもったいないし、少しでも甘く入れば長打にされる。すっぽ抜ければ打者の頭に向かう危険性もあり、どこかタブー視されています。でも、王貞治監督(当時)も「バッターにとってインサイドが一番嫌なんだ」とおっしゃっていたように、我々コーチ陣も「インコースを突ける投手をつくろう」と話し合っていました。水田の場合は力むと体が早めに開いて、右手のトップが遅れてボールがすっぽ抜けるクセがありました。いかにして8割程度の力感でトップをつくり、右腕を上から叩けるようになるか......という練習をしていました。

── 2007年の水田投手は45登板で5勝3敗19ホールド、防御率2.25と見事な成績を収めています。

高山 水田の勇気の賜物(たまもの)でしょう。カーブのような緩いボールを投げ込むこと、ストレートをインコースに投げ込むのは勇気が必要です。もちろん、そのボールを投げるために、彼は意図して技術的な練習を積んでいました。

── 次回はSBM(攝津正、ブライアン・ファルケンボーグ、馬原孝浩)結成の裏側についてお聞きできればと思います。

高山 わかりました。あの時はいろいろとあったのですが(笑)、あらためてお話しさせてもらいます。

つづく


高山郁夫(たかやま・いくお)/1962年9月8日、秋田県生まれ。秋田商からプリンスホテルを経て、84年のドラフト会議で西武から3位指名を受けて入団。89年はローテーション投手として5勝をマーク。91年に広島にトレード、95年にダイエー(現ソフトバンク)に移籍し、96年に現役を引退した。引退後は東京の不動産会社に勤務し、その傍ら少年野球の指導を行なっていた。05年に四国ILの愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任。その後、ソフトバンク(06〜13年)、オリックス(14〜15年、18〜23年)、中日(16〜17年)のコーチを歴任。2024年2月に「学生野球資格」を取得した。