盒桐が振り返るパリ五輪予選でのピンチ 石川祐希が不調も「万全になるまで自分たちが頑張らないと」
郄橋藍インタビュー 前編
男子バレーボール日本代表の主力選手である郄橋藍は2023−24シーズン、3年目となるイタリア一部セリエAのモンツァでプレーオフを勝ち進み、決勝で敗れたもののチームを準優勝に導いた。
今シーズンは、郄橋にとってどんな時間だったのか。併せて、パリ五輪の出場権を獲得した昨年のW杯について、あらためて振り返ってもらった。
モンツァで中心選手としてプレーした郄橋藍 photo by 中西美雁
――まず、今シーズンを振り返っていただけますか?
郄橋 1シーズンごとに、自分がレベルアップしていることを感じています。 昨シーズンに出場できなかったプレーオフに今シーズンは出られて、準々決勝を突破するとこるまでいけた。自分の予想よりも多くの収穫がありましたし、より自信を高めることができたシーズンでしたね。
――石川祐希選手が所属していたミラノ(次シーズンはペルージャでプレー)もプレーオフ4強に残り、決勝での日本人対決へ期待が高まりましたが......残念ながらミラノは決勝進出とはなりませんでしたね。
郄橋 そうですね。ただ、僕は日本人対決よりも、自分たちが目の前の試合を勝つことに集中していました。結果的に、自分は決勝の舞台に立たせてもらって、すごく得られるものが大きかったです。
――個人としてはMVPを多く獲得していた一方で、シーズン途中には左足首の故障もあり、苦しんだ時期もあると思います。
郄橋 シーズンは長いので、うまくいかない試合や、しんどくなる状況にもなるだろうとは予想していました。でも、まずはスタメンを勝ち取るために、しっかりリーグの開幕からいいプレー、いい形が出させたところはよかったのかな、と。
リーグ中盤は少し過密日程でチームも苦しみましたが、きつい状況を打開するために耐えました。でも、後半戦に向けて調子を上げてきたところで、僕がケガをしてしまったんです。非常にショックでしたが、「体を休めるいい機会。今のうちにしっかりと体づくりをしておこう」と思考をポジティブに変換しました。その時の影響がプレーオフで出たと思うので、ケガをしたこともただのネガティブな経験ではありませんでした。
――今年2月に行なわれた欧州の「CEVチャレンジカップ」決勝で、郄橋選手は体の状態が万全ではなくベンチスタート。2セットを取られた時点で相手のワルシャワの優勝が決まりました。第2セットは開始から立て続けにサーブで崩されてしまいましたが、郄橋選手はジャージを脱いでコートサイドに近づくなど、試合に出たい気持ちが表に出ていました。
郄橋 そうでしたね。「なんとか状況を変えたい、変えられるはず!」とウズウズしていました(笑)。
――結局は、大きく点差が離れてからコートへ。それは、監督がプレーオフのことを見越してのことなのかとも思ったのですが、郄橋選手はどう感じていましたか?
郄橋 監督やチームに対して、僕は「プレーオフに照準を合わせたい」と話していましたし、CEVカップ決勝の時は足首の状態も完璧ではなかったので、監督も起用にためらいがあったと思います。僕としては、試合の中で実戦感覚を取り戻さないといけない部分もありましたが、コートに立つならそのセットを取りきる気持ちでいましたし、点数が離れていても全然あきらめてはいませんでした。
――コートに入ってすぐ、きれいにAパスを返してサイドアウトを取っていたのが、とても印象に残っています。あそこで試合勘は取り戻せましたか?
郄橋 そうですね。しっかりと、足首の感覚を確かめながら調整していこうと。あまりプレッシャーがかからない場面でそれを経験できたことが、その後のプレーオフにつながったと思います。
――プレーオフはホーム&アウェーで3試合を勝ったほうが勝ち上がるシステムで、最大で5試合を戦うことになります。準々決勝はルーベ、準決勝はトレンティーノと、どちらもセリエAの"ビッグ4"に数えられる強豪を相手に5試合を戦って決勝への道を切り拓いたことは、貴重な経験になりましたね。
郄橋 まず、準々決勝のルーベに2試合先制できたことが、すごい経験でした。ただ、それで気持ちが緩んだわけではないのですが、チーム全員に「1試合くらいなら負けても......」という気持ちがまったくなかったかというと、そうではなかったと思います。実際にその後、逆に2試合をルーベに取られてイーブンな状態になってしまった。そこはすごく甘かったなと反省しています。
3試合を勝ちきることの難しさを感じましたが、そこから気持ちを切り替えて、最後の5戦目で勝てたことは、「自分たちが強かったんだ」という自信になりました。
【まさかの苦戦から始まったW杯の裏側】
昨年のW杯も攻守で活躍した photo by 小田部剛
――ここからは、あらためて昨年のW杯(パリ五輪予選)についてうかがえたらと思います。第1戦はフィンランド相手にフルセットの末に辛勝。第2戦のエジプトには同じくフルセットになり、競り負けました。石川選手がまだ本調子ではなかったようにも感じましたが、格下と見られていた相手にまさかの展開となりましたね。
郄橋 僕は石川選手のコンディションがそこまで悪いとは感じていませんでしたが、石川選手でも攻撃が乗り切れない時はある。だから、「万全になるまで自分たちが頑張らないといけない」と思っていました。石川選手のことは、チームも、セッターの関田誠大選手も頼りにしていて、これまでも最終的に勝負がかかった場面で決めてくれてきたことは、全員がよく知っています。W杯でもどんどん調子を上げていって、本当に勝負どころで決めきってくれました。
どんな大会でも入りは難しいですから、「フィンランド戦、エジプト戦もすんなりとはいかないだろう」という気持ちで準備をしていました。フィンランド戦では、最終セットで石川選手の代わりに入った(大塚)達宣さんが、落ち着いてサーブレシーブを返して、スパイクも決めたことで流れがグッとこっちにきた。達宣さんは、ああいう時の肝の据わり方がすごいですね。
初戦に負けていたら、その後どうなっていたか想像もつきません。立て直せたかもしれないけど、そのまま総崩れしてしまったかもしれない。あの時の、達宣さんの貢献度はものすごく高かったと思います。
――郄橋選手の心情は、いかがでしたか?
郄橋 僕は、託されたボールを決めきる、チームを勝たせるのみだと思っていました。石川選手のように頼られる選手、チームの軸として認識してもらえるように。そこはブレなかったです。
――1、2戦目の苦戦に、チーム内ではどんな雰囲気でしたか。
郄橋 1試合目がすごくタフな試合になって、「次の試合で切り替えよう!」と思っていたのに、次のエジプトに負けてしまった。チーム内の雰囲気は、いいとは言えませんでしたね。でも、いつまでも負けたことを考えてもしょうがない。「このあとの試合を全部勝てばいいだけだし、ここから勝てるか勝てないかが自分たちの今の力だ」と切り替えました。
――「切り替える」と言葉すると簡単に聞こえますが、そこまでにさまざまなことがあったと思います。エジプト戦の翌日は試合がありませんでしたが、次の試合までのチームの様子について教えていただけますか?
郄橋 (フィリップ・)ブラン監督からも話がありましたが、自分たちでもミーティングをしました。そのなかで選手一人ひとりが「どうしていきたいか」を話していったんです。そうしたらほとんどの選手が、「ここであれこれ考えてもしょうがない。切り替えていこう」と口にしていました。
文章にすると、やっぱり簡単に感じてしまうかもしれませんけど、その言葉がすべてですね。大会前、周囲からとても期待されていましたが、エジプトに負けたあとの少しの間、「自分たちはその期待に応えられないんだ」という空気になってしまっていたんです。でもそうじゃなくて、先ほども言ったように「それが今の日本の強さ、日本の力なんだ」と、初心に戻ってイチからやろうと切り替えたんです。
――正セッターの関田選手も、ものすごく重圧があったと思います。石川選手の攻撃がいつものように通らない時の選択肢のひとつであり、攻撃の起点として重要なサーブレシーブが得意な郄橋選手ですが、関田選手と話をすることはありましたか?
郄橋 フィンランド戦やエジプト戦での苦戦もあって、ブラン監督やアナリストから関田選手に対して、すごくいろいろなデータや指示が出ていました。関田選手は責任感がものすごく強いので、おそらく「苦戦や負けは自分のせいだ」と思っていた部分もあるんじゃないかと思います。そんななかで自分にできることは、きちんとパスを返して、上がったトスを決めきることでした。
僕がシーズンごとにレベルアップしていることは、関田選手にも理解してもらっていたはずです。W杯でも要所要所で得点を決めていけたことで、「マジで信頼してる」といった言葉もかけてもらえました。苦しい状況でトスを上げられる選手の選択肢が増えたことは、関田選手の負担軽減につながったんじゃないかと思います。
それが影響したかはわかりませんが、関田選手はエジプト戦後に一段とギアを上げたんです。そうしてパリ五輪の出場権を獲得できたわけですから、あらためて関田選手のすごさ、強さを感じました。
(後編:なぜSVリーグ参戦を決めたのか 「一番成長できる環境」と兄・塁の存在について語った>>)
【プロフィール】
郄橋藍(たかはし・らん)
2001年9月2日、京都府生まれ。兄の郄橋塁の影響で小学校2年生よりバレーボールをはじめる。東山高校3年生時にはエースとして国体、春の高校バレーで優勝し、2020に日本代表初選出。2021年の東京五輪では全試合にスタメン出場し、男子バレー29年ぶりの決勝トーナメント進出に貢献した。日本体育大学に在学しながらイタリア・セリエAのパッラヴォーロ・パドヴァで2シーズンプレーし、2023−24はヴェロ・バレー・モンツァで活躍。チームをプレーオフ決勝まで導いた。シーズン終了後、兄が所属するサントリーサンバーズ大阪への移籍、SVリーグへの参戦を発表した。