篠塚和典が語る「1980年代の巨人ベストナイン」(5)

中畑清 後編

(中編:「首位打者は落合じゃなくシノが獲れ!」1987年、タイトル争いから離脱した中畑清は、篠塚和典に発破をかけた>>)

 篠塚和典氏が語る中畑清氏のエピソードの後編では、中畑氏が巨人の一軍打撃コーチ就任1年目に入団した松井秀喜との関係、アテネ五輪・野球日本代表で監督代行を務めた中畑氏に対する見解などを聞いた。


打撃コーチとして、巨人1年目の松井秀喜(右)に指導する中畑清 photo by Sankei Visual

【長嶋と中畑による松井育成】

――中畑さんは1989年に現役を引退後、長嶋茂雄さんが巨人の監督に復帰した1993年に一軍打撃コーチに就任しました。篠塚さんはまだ現役でしたが、コーチとしての中畑さんをどう見ていましたか?

篠塚和典(以下:篠塚) 明るい性格ですから、選手たちとしっかりコミュニケーションを取りながらやっていましたよ。ちょうど松井秀喜(1992年ドラフト1位)が入ってきた時期だったので、ミスター(長嶋茂雄氏)と一緒に松井を育てていく計画を立て、育成に力を注いでいた時期だったと思います。

 当時はミスターも中畑さんも、「松井をなんとか一人前にしなきゃいけない」という思いがすごく強かった。松井は中畑さんの家にも行って、素振りをしたりしていたようですしね。

――松井さんを巨人の4番に育てるための「1000日計画」も話題になりましたし、期待の大きさを感じました。

篠塚 そうですね。それと、コーチが頭を悩ませるところなのですが、一度に選手を2、3人も育てることは難しいんです。「この年はこの選手を育てて、何年か後に出すんだ」と、ある程度バチッと決める。次の年には別の選手を選んで......という感じで、毎年計画を立てながらやっていくので、当時の中畑さんはかなり松井にべったりだったんじゃないですか。

――中畑さんが一軍打撃コーチに就任した年は、長嶋さんの復帰と松井さんの入団も重なり、マスコミが例年以上に多かったですね。

篠塚 ミスターの復帰だけでも大きな話題でしたが、甲子園での5打席連続敬遠などもあって、松井も騒がれていましたからね。松井は素材としても「巨人の4番にふさわしい」と思われていたからこそ、あれだけ育成に力を入れたんでしょう。

【アテネ五輪で監督代行になった中畑への心配】

――松井さんの入団当初のバッティングはインパクトがありましたか?

篠塚 ありましたね。宮崎キャンプの時だったのですが、バッティング練習での打球がバックスクリーンの上を越えていきましたから。球場はそれほど広くなかったですが、それでもバックスクリーンの上を越えていく打球なんて、そうそう見ません。高津(臣吾)から打ったプロ第1号のホームラン(1993年5月2日)の打球も速かったですし、「高校を卒業したばかりの選手が打つ打球じゃないな」と思いましたね。

――中畑さんの打撃コーチ2年目、1994年には、中畑さんと同学年の落合博満さんがFAで巨人に移籍してきました。

篠塚 同学年で気心が知れた仲だったでしょうし、いい感じでコミュニケーションを取っていました。それと、落合さんが4番に座ったことで、3番の松井にもいい影響があったと思います。中畑さんも、落合さんは"打線の核"として頼っていたと思いますよ。

――落合さんのバッティングはいかがでしたか?

篠塚 ボールのとらえ方は、本当に天才だと思います。広角に、単打も長打も自在に打てて、3度の三冠王を達成した。ホームランにしろヒットにしろ、"狙えば打てる"という感じ。落合さんが巨人に入ってからバッティング練習を見る機会が増えましたが、いつも楽しみにしていましたよ。僕は現役最後の年だったのですが、落合さんのバッティングはいい勉強になりました。

――長嶋さんと中畑さんといえば、アテネ五輪の野球日本代表で監督とヘッドコーチという関係でした(長嶋氏が脳梗塞の影響で離脱後は、中畑氏が監督代行として指揮を執った)。初めてオールプロで結成されたドリームチームとして、金メダル獲得が至上命題とされていましたが結果は銅メダルでした。

篠塚 日の丸を背負うわけですし、相当なプレッシャーがあったでしょうね。野球の日本代表として金メダルを獲ることは、ミスターも目標にしていたでしょうし、中畑さんもそれを手助けする立場として、かなりの意気込みと覚悟で臨んだと思います。

 なので、金メダルを獲ってほしいと思っていたところで、ミスターがああいうことになってしまった。中畑さんが監督代行となったわけですが、「これはちょっと大変かな」と思いましたね。先ほど(前編で)もお話しましたが、中畑さんはすごく繊細なので、「プレッシャーで体を壊してしまうんじゃないか」と、とにかく心配していました。

――篠塚さんも2009年の第2回WBCでは打撃コーチを務め、日の丸を背負うプレッシャーを肌で感じたと思います。

篠塚 WBCのプレッシャーはすごかったです。ただ、五輪とWBCは違う。確かにWBCも日本代表ではありますが、まだ参加国が少ないこともありますし、「野球の世界だけでやっている」という感じがするんです。それに対して五輪は、国を挙げての規模のように思いますし。ただ、第2回のWBCで優勝できた時は、ファンの方々もそうですが、「ミスターや中畑さんのためにも世界一を獲れた」という思いもありました。

――あらためて、同期入団から長く時間を共にしてきた中畑さんは、篠塚さんにとってどんな存在ですか?

篠塚 共にレギュラーになってからはもちろん、その前のファームでの下積み時代も長い時間を一緒に過ごしましたし、思い入れのある先輩です。自分と性格が全然違うので、無いものねだりではないですが、「自分も一度は中畑さんみたいな性格になってみたいな」「ああいう性格だったら、どういう選手になっていたのかな」と想像したりする時もありました(笑)

 それと、中畑さんと首位打者を争ったシーズンもあったように、同じチームにタイトルを争う選手がいることは刺激になりました。そういう意味ではよき先輩であり、よきライバル、そして苦楽を共にしたよきチームメイトでしたね。

(連載6:"青い稲妻"松本匡史との決まりごと 長嶋茂雄監督の強い意向に「大変そうだった」>>)

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。