「首位打者は落合じゃなくシノが獲れ!」1987年、タイトル争いから離脱した中畑清は、篠塚和典に発破をかけた
中畑清 中編
(前編:「元気ハツラツ」中畑清の素顔「ミスターをかなり意識していた」>>)
篠塚和典が「1980年代の巨人ベストナイン」で6番・ファーストに選んだ中畑清氏。そのエピソードを振り返る中編では、共に首位打者争いを演じた1987年シーズンに中畑氏からかけられた言葉、守備位置についている際のやりとりなどを聞いた。
若き原辰徳(左)とファンの声援に応える中畑清 photo by Sankei Visual
――以前、ウォーレン・クロマティさんは広角に打つ篠塚さんの影響もあり、逆方向への打球を意識し始めたというお話をお聞きしましたが、中畑さんはいかがでしたか?
篠塚和典(以下:篠塚) 最初の頃はパワーで引っ張るプルヒッターの印象が強かったです。ただ、プロの世界である程度成績を残していくためには、逆方向へ打つことも含めて、フィールドを広く使えるバッティングが必要だと思ったんでしょうね。日頃のバッティング練習からも、その意識を感じるようになりました。
それが僕の影響かどうかはわかりませんが、クロウ(クロマティさんの愛称)と同じように、逆方向へ打つ意識は自然と高くなっていったような気がします。ミスター(長嶋茂雄氏)からもそういう指導を受けたでしょうしね。やっぱりそういう意識がないと、あれだけの生涯打率(.290)は残せませんよ。
――1987年シーズンのセ・リーグでは、篠塚さんと中畑さん、落合博満さん(中日)、正田耕三さん(広島)が首位打者争いをしていました。中畑さんの打率は意識していましたか?
篠塚 チームメイトではありますが、首位打者を争うライバルでもありましたし、切磋琢磨できたというか、高いモチベーションを維持できる要因になっていました。「中畑さんに負けないように」という意識は常に持っていましたよ。ただ、中畑さんは途中でケガをしてしまって試合に出られない時期があったんです。
――中畑さんはその後、復帰して規定打席にも到達しましたが、シーズン最終盤にノーヒットの試合が続いて打率を落としてしまいましたね(最終的にはリーグ6位の打率.321)。
篠塚 そうでしたね。ちょうどその頃、中畑さんに「首位打者は、落合じゃなくシノ(篠塚氏の愛称)が獲れよ!」と発破をかけられました。
――同年は、落合さんがトレードでロッテから中日に移籍して1年目のシーズンでしたね。
篠塚 別のリーグから来た選手に簡単に首位打者のタイトルを獲らせるな、という意味もあったと思いますし、自分がダメなら同じチームの僕にタイトルを獲ってほしいという気持ちがあったんじゃないですかね。
【ファーストへのコンバートの影響】――中畑さんは1989年限りで引退しましたが、同年の近鉄との日本シリーズ第7戦で放った、代打でのダメ押しホームランが思い出されます。何かをやってくれそうなバッターという印象もありましたが、篠塚さんはどう見ていましたか?
篠塚 確かに打席に入ると、何かをやってくれるんじゃないかという雰囲気はありましたね。その日本シリーズでのホームランを打った打席もそうでしたし、同年にリーグ優勝を決めた試合でも代打で二塁打を打った。"持っている"選手だったと思います。
――中畑さんは当初サードを守っていましたが、試合中(1981年5月4日の阪神戦)のケガで離脱して以降は、それまでセカンドを守っていた原辰徳さんがサードにコンバートされ、戦列復帰後はファーストへ。セカンドの篠塚さんと守備位置が近くなりましたが、試合中に声を掛け合うことは多かったですか?
篠塚 僕から声をかけることが多かったですね。
――先輩の中畑さんからではなく?
篠塚 ファーストは、あまり動きがあるポジションではないですからね。でも、中畑さんはちょっと出過ぎちゃうところがあって......。なので、僕から「このラインまでは僕が捕りますから、そこから右には動かなくていいですよ」とか、「ライン寄りにいってください」などとお願いしたこともありました。
――(前編で)「中畑さんは4学年先輩だけど話しやすかった」というお話でしたが、やはり言いやすかった?
篠塚 そうですね。すごく話しやすかったので、試合中でもそれ以外の場面でも、中畑さんとの会話の中で気を遣うことは、いい意味でありませんでした。なので、試合中のコミュニケーションもしっかり取れていたと思います。
――中畑さんはファーストを守ることになった1981年シーズンに、規定打席に到達したシーズンでは自己最高の打率(.322)をマークしました。ファーストに定着したことがバッティングにいい影響を与えたんでしょうか?
篠塚 それまで守っていた場所、守りたかったサードを守れなくなった、という悔しさは多少なりともあったと思います。だからこそ、「打つほうで頑張ろう」と気持ちが入った部分はあるんじゃないですかね。そういった意識がうまく働いた時期だったかもしれません。
ファーストは外野手でもそれなりに守れますし、ボールに対しての動きが少なく、ベースから離れない。ファーストの守備が簡単とは言いませんが、それほど迷うことはなくなったと思います。あれが、ショートやセカンドへのコンバートだったら、ちょっと迷ってバッティングにも影響していたかもしれません。そもそも、中畑さんはショートやセカンドというタイプではないですからね。
――ちなみに、現役時代に中畑さんとどんな話をしていましたか?
篠塚 野手陣の何人かで食事やお酒を飲むことはあっても、ふたりで出かけることはそんなになかったかな......。ユニフォームを脱いでからは年に数回、グラウンドで偶然会うことがあったくらいです。
そんななかで現役の時に話していたのは、バッティングや守備のことなど、ほとんどが野球に関することでした。中畑さんが「あの時、俺は(守備位置がセカンドの方に)出過ぎてたな(笑)」とか、冗談交じりで話してましたよ。
(後編:中畑清のアテネ五輪監督代行を聞いた篠塚和典は「プレッシャーで体を壊してしまうんじゃないか」と心配になった>>)
【プロフィール】
篠塚和典(しのづか・かずのり)
1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。