篠塚和典だけが知っている「元気ハツラツ」中畑清の素顔「ミスターをかなり意識していた」
中畑清 前編
(連載4:クロマティが「4割バッター」に迫った1989年 「大好き」と語っていた投手とは?>>)
長らく巨人の主力として活躍し、引退後は巨人の打撃コーチや内野守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任した篠塚和典氏が、各年代の巨人ベストナインを選定し、各選手のエピソードを語る。
以前選んだ「1980年代の巨人ベストナイン」のなかで4人目に語るのは、同期入団であり、お互いに中心選手として長く苦楽を共にした中畑清氏。前編では最初に出会った時の印象やプレースタイルについて聞いた。
1983年の日本シリーズ第3戦でサヨナラヒットを放ち、王貞治監督(左)らに迎えられる中畑清(中央)photo by Sankei Visual
――篠塚さんは中畑さんと同期ですが、入団当初の印象はどうでしたか?
篠塚和典(以下:篠塚) 自分が高卒(1975年ドラフト1位/銚子商)で中畑さんが大卒(同3位/駒澤大)でしたから、やはり体のでき具合なんかは全然違いました。それと、自分の場合は最初から「3年間はファームで」とミスター(長嶋茂雄氏)に言われていましたからね。大卒の中畑さんは入団当初から周囲からの期待も大きかったですし、「早い段階から一軍でプレーするだろうな」と思っていました。
――当時の巨人は、王貞治さんや高田繁さんなどもまだ現役で選手層が厚く、その影響もあってか、中畑さんがファームで下積みする期間も長かったですね。
篠塚 中畑さんが一軍に定着したのは、僕と同じ4年目からでしたね。ファームで一緒にやっていた期間がけっこう長くて、内野で一緒にノックを受けたりしていました。自分がショートかサード、中畑さんはサードでノックを受けていました。
寮で一緒の期間もありましたし、話す機会は必然的に増えていきました。中畑さんの性格は見ての通り明るいですし、すごく話しやすかった。4学年先輩なのですが、いい意味で年の差を感じることなく自然に接することができましたね。
――当時の中畑さんの守備はどうでしたか?
篠塚 中畑さんが最初に守っていたサードは、「うまい」とか「下手」という印象がわかりにくいポジションですから。その上で語るのならば、中畑さんは動きが硬い印象があったので、「動きの柔らかさに関しては負けてないぞ」と思っていましたね。それと、巨人のサードはミスターが長く守っていたポジションでしたが、「中畑さんがその後を引き継いでいくのかな」と見ていました。
【余裕がなかった地獄の「伊東キャンプ」】――ふたりとも、若手選手を鍛える地獄のキャンプとして語り継がれている「伊東キャンプ」に参加していましたが、励まし合う、といったことはありましたか?
篠塚 ノックや坂道のランニングなど毎日が本当にハードでしたから、周囲のことを気にする余裕はなかったです。ミスターの練習についていくのが精一杯で、とにかく自分に負けないように、離脱しないように、という気持ちで取り組んでいました。
練習が終わった直後は自力で立つのもやっとでしたし、宿舎に戻ったら少しのんびりして食事をして......その間に、選手同士で話をすることはなかったです。「話すのも面倒だ」と感じるほど疲れていましたね。キャンプ当初の一週間くらいは、食事の後にミーティングをしていて、土井正三さん(当時の守備走塁コーチ)たちが話すのですが、意識が朦朧として眠たくて......何を話していたのかわかりませんでしたよ(笑)。
――少ない休日ですら、選手たちは疲れていて外出しなかったとも聞きます。
篠塚 余力なんてまったくなかったですし、外で気晴らしする気力はなかったです(笑)。それと、キャンプは飲酒が一切禁止だったんですよ。食事の時に飲むお酒を息抜きにしていた選手もいたと思いますが、それができなかったので余計につらい部分があったんじゃないでしょうか。
ただ、一週間後に青田昇さん(当時のヘッドコーチ)がキャンプに合流した時に、「なんで酒が出ないんだ?ビール1本ぐらいは出してやれよ」と提言されて、それからお酒が出るようになったんです。青田さんは、お酒を飲む方でしたからね。
【篠塚にはわかった、中畑の繊細な部分】――中畑さんの話に戻りますが、グラウンドの中でも外でも変わりませんか?
篠塚 ほとんど変わりませんし、いつも明るいです。だけど、すごく繊細な面もあって、そこはあまり他人に見せないんですよ。けっこう考え込むタイプで、周りを見て気を遣うというか。
みんなの前ではワイワイとお祭りみたいな感じで盛り上げたり、努めて明るく振舞っていますが、「今、何かを考えているな」という表情を何度か見たことがあります。自分は、中畑さんと一緒にいた時間が長かったからそう感じていますが、基本的に繊細な面は表に出しませんから、ほとんどの人は気づいていなかったんじゃないですかね。
――プレー中も暗い表情は見せない?
篠塚 調子が悪くて打てなくても、守備でエラーしてしまっても、落ち込む姿は見せませんでしたね。打てない試合が続いてもいつも覇気がありましたし、「元気ハツラツな選手」という印象を、チームに対しても、ファンに対しても見せていました。
そういう意味では、ミスターをかなり意識していたのかもしれません。打てる・打てないは別として、「自分がこういうことをやれば、ファンは喜んでくれるだろう」とか。自分やチームがどんな状況の時でも常にポジティブでしたし、全力でプレーしていた印象があります。
――当時はウォーレン・クロマティさんもいましたし、明るいキャラクターの選手がチームを牽引していたんですね。
篠塚 そうですね。中畑さんもクロウ(クロマティ氏の愛称)もチームのムードをよくしようとして、意識して明るく振舞っていたと思いますよ。ただ、先ほどもお話したように中畑さんは考え込むタイプなので、ミスしてしまった時なんかは常に反省していましたよね。だけど調子の悪さなどは表情にはほとんど出さない。そこは徹底していたと思います。
(中編につづく>>)
【プロフィール】
篠塚和典(しのづか・かずのり)
1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。