連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第55回

 一軍で一度も登板機会がなかったプロ10年目──新型コロナウイルスの感染拡大によって開幕が6月にずれ込んだ2020年、斎藤佑樹は二軍で19試合に登板している。その19試合目が10月16日、イースタン・リーグのジャイアンツ戦だった。この試合にリリーフで登板する予定だった斎藤を、悪夢が襲う。


2021年のキャンプで入念にフォームをチェックする斎藤佑樹 photo by Ichikawa Mitsuharu(Hikaru Studio)

【なかなか抜けない右ヒジの張り】

 あの日、ジャイアンツ球場のブルペンでリリーフの準備をしていたら、右ヒジに異変を感じたんです。それまでにもヒジが張るとか、なかなか張りが抜けないことはありましたが、あの時はハッキリと痛みを自覚させられました。

 試合前のブルペンではいつも30球ぐらい投げれば温まってくるのに、何球投げてもその感じになりません。結局、70球ぐらい投げたのかな......それでもヒジは温まらず、仕方なくそのまま試合に臨みました。この感覚ではチェンジアップに頼ってゴロを打たせるしかないと思っていました。

 なぜヒジが痛むのかということより、マウンドでどうすれば凌げるのかということばかりを考えていました。投げないほうがいいという感覚にはならなかったんです。なぜなんでしょうね......きっと、何とかなると思ったんでしょう。ヒジに張りがあっても、思い描くボールが投げられなくても、引き出しを開ければ何とかできると思ってしまう。よきにつけ悪しきにつけ、それが普段の僕の発想でした。

 ジャイアンツ球場のマウンドへ上がったのは6回裏です。正直、誰に何を投げたとか、まったく覚えていないんです。引っかけてワンバウンドのボールを投げてしまったこと、ボールがとんでもないところへ抜けたことは覚えていて......ああ、そういえばジャイアンツの打線にダイさん(陽岱鋼)がいましたね。試合前に話したんですけど、対戦していたのかな......バッターと戦う前に自分と戦っていましたからね。

 ヒジが痛い、ボールがいかない、どうしようと、もうパニックです。それでもなぜか、(ヒジが)壊れる怖さはありませんでした。これまでにもヒジが痛い、肩が痛い、腰が痛いと、慢性的な痛みを抱えながら投げたことは何度もありましたし、とにかくアウトをひとつ取るにはどうしたらいいんだと、ピッチングの組み立てを必死で考えていたような気がします。

【新しい治療法を選択したワケ】

 この日の斎藤のピッチングは荒れに荒れた。先頭の八百板卓丸に初球のスライダーがワンバウンド。3球目のストレートをライトへ弾き返され、これがフェンス直撃のスリーベースヒットになる。続く加藤脩平にチェンジアップを続けるも、結局は甘いストレートをライト前へタイムリーを許して、1失点。イスラエル・モタにレフト線へツーベース、湯浅大にデッドボールを与えて満塁とし、ワンアウトから戸根千明に犠牲フライ、陽岱鋼にレフトフェンスを直撃されてさらに2点を失う。戸根にも陽岱鋼にも、フォークを叩きつけたワンバウンドがあった。斎藤はこの回を投げきることなく、交代──悪夢の20球だった。

 試合が終わって、病院に行くべきかどうか、迷いました。結局、明日になれば痛みは治まるかなと思ってそのまま帰宅しましたが、翌朝、右ヒジは痛いまま。歯を磨くこともシャンプーすることも辛くて、ある角度にヒジを持っていくと激痛が走るんです。これは今までの張りが抜けない感じとは明らかに違っていました。もう悩んでいる場合じゃないとハラを括って、ドクターに診てもらうことにしました。そこで最悪の診断を受けることになります。

 右ヒジの靱帯断裂......そう聞いた瞬間、「ああ、ここまでか」と覚悟しました。野球、やめなきゃいけないのかな、と思ったら、いろんなことが浮かんできました。もし野球をやめるとしたらどうするのか、続けるとしたらどうすればいいのか。だからドクターに「どうしたらいいですか」と訊いたんです。そうしたらいくつかの選択肢を出してくれました。

 切れている靱帯を再建するにはトミー・ジョン手術しかありません。でも、この手術を受けたら1年以上のリハビリが必要になります。僕にそれだけの時間的猶予がないことはわかっていました。だったら手術をせずに靱帯を再建する方法はないものか......ドクターは、新しい治療法に挑戦してみるのもいいんじゃないかと言ってくれました。それは、PRP療法という保存療法の確度をさらに高める新たな治療法でした。

 PRPというのは血液中の多血小板血漿(たけっしょうばんけっしょう)のことで、傷んだ組織を元どおりに治そうとする自己治癒能力を高める働きをしてくれます。自分自身の血液からPRPを採取して、それを患部に注射します。それだけならPRP療法ですが、もっと根本的な靱帯の治癒メカニズムを生物学的に呼び覚ますために、いくつかのアプローチを施しました。

 まず自己治癒能力を邪魔しないための患部の固定、成長ホルモンを分泌させるための効果的な睡眠、さらに靭帯の再生に必要な材料として靱帯を形成するコラーゲンを再合成するための必要な栄養の補給......そこにプラスアルファ、成長因子としてのPRPを注入するんです。つまりPRP療法の効果を増強するために、複数の治療を並立して施すというのが、僕がトライした新しい治療法でした。

【リハビリは楽しいイメージしかない】

 その治療法がよかったのかどうか、今の僕にはわかりません。ただ、野球における医療の世界の常識に疑問を投げかけるきっかけとなった治療法だとは思います。この治療法で靭帯の再生を活性化させながら、ある程度の修復が認められた時点で出力を上げずにヒジへ負荷をかけます。

 翌春のキャンプで100キロの球速で200球のピッチングをしたことにはそういう意図がありました。投げる刺激によって靱帯の再生を促すと同時に、これまでのフォームを見直して理想のイメージに近づけようと思っていたんです。

 腕の振りではなく体幹の回旋で球速を上げるために、力感なく投げることを意識する。この新しい治療法を取り入れて、2カ月で投げられるようになったアマチュア選手もいると聞きました。ほとんどの選手は半年ほどで靭帯はくっついてくれるというので、だったらその方法でやってみようと思ったんです。

 トミー・ジョン手術を受けてしまえば投げるまでに1年以上はかかりますし、それをしてしまえば、あの時の僕はもう野球は続けられません。その方法にかけるしかなかったんです。

 こうと決めたら、迷いはありませんでした。もしかしたらこれは人間の悪い部分でもあると思うんですけど、僕もヒジの靱帯が切れていたことを自分のなかで言い訳にしたところはあったと思います。思うようなボールが投げられなかったのは力のせいでも歳のせいでもなく、ヒジの靱帯が切れていたせいだったんだと......じゃあ、結果が悪くてもしょうがないよねって、そう思いたかったんでしょうね。でも、だからこそ、ヒジが治ればいいボールを投げられるはずだと、前向きに考えることができたんです。

 だから、あのリハビリは辛くて苦しいというより、やり甲斐があって楽しいイメージしか残っていません。年齢的にもキャリアから考えても崖っぷちだったはずなのに、なぜなんでしょうね。

 周りからはよく「いろいろな雑音に神経を使って大変だね」と言われましたが、そんなに大変だと感じてもいなかったし、今に始まったことでもないと思っていました。

 ファイターズが契約してくれる以上は周囲の雑音に耳を傾けるよりも自分にできることをやるしかなかったし、自分なりに納得できるリハビリを続けていこうと考えました。

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 10年目を終えたところで手にした勝ち星は15。この3年は勝つことができず、10年目は一度も一軍に上がれなかった。プロ11年目、またも結果が残らなければ12年目はやってこないかもしれない。そんなことは誰に言われるまでもなく、斎藤自身がとっくに覚悟している。あの夏の甲子園から15年、ついに斎藤佑樹、最後の勝負が始まろうとしていた。

次回へ続く


斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日、群馬県生まれ。早稲田実高では3年時に春夏連続して甲子園に出場。夏は決勝で駒大苫小牧との延長15回引き分け再試合の末に優勝。「ハンカチ王子」として一世を風靡する。高校卒業後は早稲田大に進学し、通算31勝をマーク。10年ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目から6勝をマークし、2年目には開幕投手を任される。その後はたび重なるケガに悩まされ本来の投球ができず、21年に現役引退を発表。現在は「株式会社 斎藤佑樹」の代表取締役社長として野球の未来づくりを中心に精力的に活動している