連載 怪物・江川卓伝〜充実の大学3年(後編)

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 大学2年秋のリーグ戦中に診断された剥離骨折もすっかり癒えた江川卓は、1月上旬からトレーニングに励んだ。二度とケガをしないよう、丹念に下半身づくりから始めた。2月中旬からはフォームの確認をしながら肩をつくり、3月に入ってからは例年になく投げ込んだ。

 剥離骨折の影響なのかわからないが、肩がほんのわずか開き気味になってしまい、左足が着地してから腕を振り下ろす際のしなりもなくなった。そのため高校時代のような豪快に腕を振って投げるスタイルではなく、コントロール重視で打者との駆け引きで勝負する投手へと完全にモデルチェンジしたのだ。

 当時は、今ほどインコース勝負というのが少なかった時代。一説によると、江川は高校1年秋の関東大会で頭部にデッドボールを食らったことでインコースを投げなくなったとも言われているが、単にアウトコースだけでも十分に抑えられたというわけだ。

 三振やノーヒット・ノーランは狙わず、「いかに効率よく勝つか」に目標を置いた大学時代。プロで投げるためにも、できるだけ肩を消耗しないことを意識した。


春・秋連覇を達成した大学3年時の江川卓 photo by Kyodo News

【超難関の転部試験に合格】

 1976年、東京六大学の春季リーグ戦が始まった。初戦の東大戦で江川が先発し、7対0の完封勝利。幸先よくスタート切った法政大は、10勝1敗3分と強さを見せ、全チームから勝ち点をあげる完全優勝を成し遂げた。

 江川は14試合中12試合(80回2/3)に投げて6勝1敗、防御率0.56、奪三振72の好成績をあげた。省エネピッチングを心がけていた江川だったが、ピンチになった時に投げるボールはやはり一級品。状態としては100%でないにもかかわらず、それでも簡単に抑えてしまうのだから、やはり"怪物"なのだ。

 第2カードの慶應義塾大戦は、第1戦に先発し完投するも0対0で引き分け。第2戦も先発して5回を無失点に抑え、チームは9対0で勝利。第3戦は5回一死からリリーフで登板するも、2対4で負け投手。第4戦は再び先発して3対1で完投勝利。

 4連投の離れ業ができたのは、リーグ戦開幕前の4月上旬に500球の投げ込みを3日連続やったことが大きかった。肩は消耗品といえども、スタミナは投げ込まないとつかない。江川はケガをしない体づくりと同時に、連投に耐えうるスタミナとスタイルを身につけていたのだ。

 さらに投手陣でベンチ入りした4年生はふたりのみ。それもあって、マイペースで調整できたことも江川にとっては大きかった。

 そしてなにより、江川にとってうれしい出来事があった。

 3月末に行なわれた二部から一部への転部試験に合格し、晴れて一部学生となったのだ。もともと慶應義塾大を狙って猛勉強していたのが、経済学部、法学部、商学部とすべて落ちてしまったため、試験が残っていた法政大二部の法学部を受験し、合格した経緯がある。

 天下の江川が二部学生では示しがつかない。前年も転部試験を受けたが落ちてしまい、父の二美夫から「男ならもう一度勝負してみろ」と発破をかけられ、江川はラストチャンスに賭けた。

 合宿所に入っている一部学生の選手たちと一緒に授業を受けたい思いもあり、最後の転部試験に受かるために江川は必死になって勉強した。試験科目は英語の一教科だけ。それでも二部に入学してから一部に編入しようとする学生が多くいるのか、競争率は100倍以上。一般入試よりも困難とされる転部試験の壁の高さを、江川は身にしみて感じている。

 それでも江川は「もともと僕は外国語が好きなんです。高校時代から英語だけは80点以下を取ったことがないんじゃないかな」と豪語するだけあって、見事合格を勝ちとった。

 心身ともに充実の一途をたどった江川は、難攻不落のピッチャーへと形づくられていくのだった。

【岡田彰布を子ども扱い】

 夏の間は下半身強化のためのランニングを重点的に行ない、来る秋季リーグ戦に備えた。

 各大学が「打倒・江川」に闘志を燃やしたが、春と同様に全チームから勝ち点を上げる完全優勝を果たし、連覇を達成した。

 江川は10試合に登板(85回1/3)し8勝2敗、防御率0.74、奪三振76と文句のつけようのない内容だった。

 とくに天王山となった早稲田大との3試合はすべて完投という、大学野球ではめったにない起用で、江川にとっても生まれて初めてのことだった。

 初戦は完投するも、守備の乱れもあり自責点0ながら3失点で負け投手となった。

 第2戦はかわす投球に徹し、投球数111球のうち46球がカーブだった。江川の特大ホームランもあって9対0で圧倒。6回の時点で9点差をつけていたため、監督の五明公男は江川に「代わるか?」と聞くと、「いえ、投げます」と即答した。ホームランも打って気持ち的にも乗っていたこともあっただろうが、「優勝するんだ」という気迫が江川にはみなぎっていた。

 第3戦は前日の投球から一転、ストレート中心のピッチングを見せて、5対1で勝利。結局、3日間で計26イニング、344球をひとりで投げ抜き、宿敵・早稲田に勝利。まさに大エースの貫禄を見せつけた。

 早稲田には、1年生の岡田彰布(現・阪神監督)が主力として名を連ねていた。第1戦は3打数3安打、第2戦は4打数1安打2三振、そして第3戦は3打数無安打2三振。

 最初の対戦では、岡田がどのくらいの実力なのか、明らかに様子見で投げている。しかし、絶対に落とせない第3戦では完璧に封じてみせた。

 以前、岡田は大学での江川との対戦について、次のように語っている。

「最初7番で3の3かな、打ったんです。それで5番に上がったら、全然ボールが違うんです」

【二刀流の活躍で連覇に貢献】

 この早稲田との対戦で、ピッチングもさることながら強烈な印象を残したのが、江川のバッティングである。江川は自身のYouTubeチャンネルで「バッティングはよかったですから」と何度も強調して話しているように、この大学3年秋のリーグ戦では、バッティングでも勝利に多大なる貢献をした。

 10試合で38打数13安打、10打点、2本塁打。打率.342は打撃ベストテン2位で、首位打者が.409なので、あと3本ヒットを打っていれば首位打者だった。まさに"二刀流"の大活躍である。

 その江川だが"二刀流"についての持論があり、大谷翔平(ドジャース)はそもそもバッティングを主とした二刀流だが、自身はピッチングを主とした二刀流であると見解を述べている。

 とにかく、この頃の江川は神宮で超人的な活躍を見せ、六大学の関係者は「江川のような速い球を投げる投手は何人かいたが、江川のようにラクに勝てるピッチャーは見たことがない」と異口同音に話している。

 江川は高校時代のような剛球は封印したが、コントロールを磨き、打者心理を読んだピッチングで勝てる投手へと変貌を遂げた。春秋連覇を達成した「花の49年組」は、史上タイとなる4連覇に向かって驀進していくのだった。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している