江川卓が見せた寂しがり屋の一面 麻雀を終え帰宅しようするチームメイトに「おい、やめないでくれよ」と懇願した
1976年1月8日、川崎市木月の法政大グラウンドで江川卓以下、「花の49年組」を中心とした野球部員たちが始動した。前年10月下旬の秋季リーグ最終戦前に剥離骨折で戦線を離脱した江川が、早朝のランニングで先頭に立って走っている。
「マスコミには、僕がランニング嫌いと書かれているけど、別にランニング嫌いじゃありません。なんでそう書かれるのかわからないんですけど......」
江川は相変わらずマスコミを煙に巻くような発言を残しながらも、3年生になる自覚が芽生えたのか、心身とも充実しているのが誰の目にも明らかだった。
大学の野球部寮でリラックスした表情を見せる江川卓 photo by Kyodo News
1年時は最下級生ということで、理不尽な仕打ちにもなんとか我慢できた。だが、年が明けて2年生になりやっと解放されるかと思いきや、新入生が少ないという理由で1年時と同じ扱いを受けた。こんな生活が2年も続けば、どんな強靭な精神の持ち主でも心が折れてしまう。
2年時は春、秋ともにあと一歩のところで明治大に優勝をさらわれた。延長戦で競り負けた試合が多く、粘り負けと言えばそこまでだが、組織として3、4年生が中心となって構成されるのがほとんどの大学野球部にあって、2年生がほぼ主力だった法政は上級生からの激しい妬み嫉みがあったのは言うまでもない。江川が力投しても、打線の援護なく力尽きるのにはそれなりの理由があったのだ。
3年生になった江川たちは、三遊間以外のポジションはすべて"江川世代"で埋め尽くされた。新しい合宿所が完成したことで、2年間下宿していた江川や植松精一たちの"下宿組"も入寮したことで一体感が生まれ、団結力が増した。
さらにチーム力を上げたのが、4年生のキャプテン・高代延博の存在である。智弁学園(奈良)から投手で入ったが、合宿所にも入れてもらえず、2年間バッティングピッチャーに明け暮れた苦労人。そんな高代を江川と同室にし、四六時中お目付役となり、前年までとは違い主力である「花の49年組」と対話を試みた。
日大三高、法政大で指揮を執り、さらにプロ野球・近鉄の初代監督である藤田省三は、江川についてマスコミを通じてこう評していた。
「体力、野球センスという面では、私が見たなかでもずば抜けてトップクラスに位置する。日本の野球界を変えるほどの素質の持ち主であるのは間違いない。ただ、まだ精神的な面では物足りないところがある」
大学1、2年の頃の江川は、なるべく目立たぬように周りに気を遣いすぎており、そんな姿が藤田には歯がゆくて仕方なかった。
400勝投手の金田正一は高校時代の江川を見て、「プロでやれば、おそらくワシのつくった記録をことごとく破ることができる男や」と断言するほど、江川はプロ野球界にとっても至宝だった。
江川は性格的にも温厚かつひょうきんで、必要以上に周りに気を遣うタイプ。その性格が、プロ入りにあたってマイナスになるのでは......と、当時の週刊誌は危惧していた。
大物と期待されながら、周りを気にしすぎるあまり自分を見失い、力を発揮できないままプロ生活を終えた選手をこれまで何人も見てきた。
しかし、江川は違う。大物ではなく、怪物なのだ。江川の才能を身近で見てしまった者たちは、ある種の思いを抱いていた。
「あいつが最後まで本気を出したらどうなるのか......」
余力を残しながら投げていることは、チームメイトたちの誰もがわかっていた。自分たちとは次元が違う。この怪物に対して、彼らはどこかで畏怖の念を抱いていたのではなかろうか。
【普段は麻雀好きの大学生】マウンドでは圧倒的オーラを放っていた江川だが、グラウンドを離れればどこにでもいるふつうの大学生で、麻雀を好んだ。大学3年に上がる前、合宿所を建て替えるということで、各部員が散り散りになって下宿し始めた。このときばかりと江川の部屋に、同じピッチャーの鎗田英男、中林千年、野手では植松、袴田英利、ウィリー木原、金久保孝治らが練習終了後に集まり、雀卓を囲んだ。当時キャッチャーだった金久保が、目を細めて懐かしそうに語る。
「江川とは小山高校で一緒にやるはずだったから、何かと気を遣ってくれましたね。江川はとにかく麻雀が好きで、試合前日でもやるんです。ただ夜中の12時頃になると、江川は『明日先発だからもう寝る』って言うんです。僕は試合に出ないし、植松は出てもあまり打たないんだけど、みんな気を遣って『じゃあ、やめるか』って言うと、江川は『やめないでくれよ』って。静かになるのはイヤだったんじゃないですか。寂しがり屋だから。ならば......と、僕らは朝までやっていましたね。試合中はブルペンでピッチャーの球を受けるんですけど、もう眠くてね(笑)。
江川は、満貫以下は役じゃないと思っているから手に溺れるタイプ。鳴く(ポン、チー、カン)と怒るんです。手作りの邪魔をされることを嫌がりましたね。麻雀ばかりやっていると、牌を積むときに小指が立つんです。江川が投げるときに小指が立っていることがあって、『おい江川、小指が立ってるぞ!』ってみんなで言ったことがありました」
高校では味わえなかった仲間との娯楽、語らいを、江川は法政に行って初めて経験し、大切にした。
時として、人間は力で他人を制圧できる。江川も自らの力を見せつけることで、周りを黙らせた。ただ江川は、制圧することはしなかった。そこまでして、栄光を手にしたくなかったのだ。
歴代の大投手には、自分ひとりで野球をやっていると信じて疑わない"唯我独尊"タイプが多い。しかし江川は開拓者、もっと言ってしまえば"革命家"タイプなのかもしれない。組織や体制を急激に変えたいわけではないが、古い思想を善とするのではなく、仲間とともに新しいものを取り入れ、進化していくことを望んでいたのではないか。
それはプロ入り後の江川がプレーから待遇まで、あるゆる面で意識改革を起こしたことが如実に物語っている。江川がほしかったのは栄光などではなく、信頼できる仲間だった。だからこそ"和"を求めた。
大学3年になり、ようやく野球に集中できる環境が整った。江川を筆頭とする「花の49年組」の実力が、いよいよ発揮されることになる。
(文中敬称略)
後編につづく>>
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している