女優・立花理佐が明かす“直腸がん”との戦い 術後の激痛、苛烈な抗がん剤の副作用…支えになったのは友人たち
大病を患った人の多くが、発覚当初に感じるという「まさか私が……」という思い。その「まさか」を経験した立花理佐さん(52)に、辛く厳しい闘病の日々を赤裸々に語っていただきました。
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’23年11月、自身のブログで直腸がんであったことを公表した立花理佐さん。その後もつらかった心境を包み隠さず発信し、読者の反響を呼んでいる。
「元気をもらっているのは私のほう。こうして病気のことを語ることができるのも、多くのメッセージに励まされているからです」
今は明るい笑顔でそう語れるようになった立花さんだが、闘病中は無意識に何度も「死にたい」と口にしていたという。
’20年5月に直腸がんが発覚し、抗がん剤、放射線治療を経て、腸、子宮、卵巣などを切除する手術へ。術後の激しい痛みと抗がん剤や放射線治療の副作用に悩まされた。
「今思うと、何かに乗っ取られているような感じでした。『痛い!』と思うときだけわれに返るというか。正直、細かいことは覚えていないことも多いです……」
最初に感じた異変は「トイレに行きたい」と思う頻度が、どんどん高くなっていったことだという。
「緊張するとトイレに行きたくなるような感じがずっと続いていたんです。スーパーとかトイレがない場所だと急に心配になって、余計に行きたくなるという感じで」
そして痛みを伴いはじめた。
「痔も出ていましたが、薬で痛みが治まるので、気にしないようにしていました。でも、痛くて座っているのもつらくなってきて……たまにドバッと血が出ることも」
’20年3月、新型コロナウイルスが騒がれはじめたころ、トイレの回数と痛みが「尋常じゃない」と思いはじめたという。見かねた夫が立花さんを病院に連れていった。
「診察してもらった瞬間に『検査しましょう』と伝えられて、そのまま内視鏡検査に。もう何が何だかわからないうちに『うわあ〜』って。それは痛かったですよ」
検査結果が出るまでに、不安や恐怖はなかったのだろうか。
「『私は痩せてないから、大丈夫だよね』と思っていました。がんで亡くなってしまった堀江しのぶちゃんと仲がよくて、病気がわかる前に会ったとき、痩せてすごくきれいになっていたんです。それで『ダイエットしたの?』と聞いたら『何もしてないの』と、うれしそうな笑顔だったことが印象強くて……」
1週間後、一人で告知を受けた。
「ドラマとは全然違って、ただ『がんです』と言われただけ。『ほえ?』みたいな。正直、何を言っているか意味がわからなかったです」
大きな病院へ転院し、夫と2人で病状の説明を受ける際も、
「『腸から子宮にガブッとなっている』って。ほかにもいろいろ話していましたが、難しくて何を言っているかわからないし、どこか人ごとで、私はほとんど聞いていなくて。夫が近所の人に『あいつ本当にわかっているのかな?』と漏らしていたみたいです(笑)」
治療では、抗がん剤と放射線治療でがんを小さくしたうえで、腸、子宮、卵巣などを摘出することに。
「実は10年ほど前から子宮内膜増殖症という、前がん性の病気のためホルモン剤を飲んでいたんです。そろそろ飲まなくていいかもね、というタイミングで直腸がんが見つかって。摘出については仕方ないというか、そうだよなって」
大きな手術にもかかわらず「手術後すぐに復帰できる」と思っていたといい、このときは“悲劇のヒロイン”を楽しむ余裕もあった。
「友達や親戚にも『ちょっと手術してパッと取るだけだから』と言っていました。夏場だったので、着替えやすいワンピースを2着買って、病院まで音楽を聴きながらさっそうと歩いたり。体力をつけるために『なんでも食べていい』と言われたのもうれしかった(笑)」
そして’20年11月、13時間におよぶ大手術が行われた。術後に目を覚ますと、経験したことのない激しい痛みに襲われたという。
「起きた瞬間から、(腹部周辺を指して)この辺り全部。痛かったら好きなだけ押していいっていう、痛み止めが出るボタンを押しまくりました。痛すぎて夢か現実かよくわからなかった気がします」
■抗がん剤治療中は冷たいものに触れると激痛が…
手術後の癒着を防ぐため、翌日から体を動かすよう伝えられた。
「痛くて眠れないし、寝返りもできないし、食事するにも座っていられない中で『動け!』ですよ。私、出産より痛いものはないと思っていたんですよ。体の中が切り刻まれているんだもの、それは痛いに決まっていますよね……」
1カ月ほどの入院中も退院後も、痛みは続いていたという。
「座っていられないから、立っているか横になっているしかなくて、ほとんど寝たきりでした。歩くのもゆっくりすぎて信号を渡り切れなくて。走りたい気持ちがあっても体が動かないんです」
今まで当たり前にできていたことが突然できなくなったことで、少しずつふさぎ込んでいったという。さらに、抗がん剤と放射線治療が追い打ちをかけることに。
「副作用がすごくて、放射線はお尻がやけどのような痛みでトイレに座ると傷口に塩を塗られたような感じでしたし、抗がん剤では冷たいものに触れると激痛が走るように。手を洗うのもすごく怖いし、泣きたくても目の奥が痛くて泣けないし。冬だと、病院から出るときに顔が痛くて固まるんですよ」
手袋をして洗濯物を干すなど、できる家事はやったが、できないことのほうが多かった。夫と息子の手厚いフォローに、はじめこそ感謝できたが、だんだん「私はいらないんだ」と思うように。そこに副作用への恐怖も重なった。
「抗がん剤治療の最後のほうは、副作用が怖すぎて先生の顔を見るたびに涙が止まらなくて『もう無理!』『どうにかしてください』って泣きついていました」
このころから「死にたい」と口にすることが増えていった。
「ずっと泣いていて、息の仕方がわからない。体も思うように動かないし、悲しいし、痛いし、全部の感情が出てきて、自分でもよくわからなくて。助かってもこんなに苦しいんだから、死ぬときはもっと苦しいんじゃないか、とか『死』についてずっと考えていました。家でできることは少ないし、仕事復帰もできなくて、やりたいことを何も見いだせなかった」
ふさぎ込む立花さんを救い出したのは、友人たちだった。
「電話番号がわかる友達みんなに『がんでつらいんだけど!』って電話をかけました。中村由真ちゃんは、『ずっと連絡ないのに、急に連絡がきたからよほどつらいんだと伝わってきた』って(笑)。言われて困る人もいっぱいいたかも。でも、私にはいい友達がこんなにいたんだって思いました」
立花さんの異変に気付いた友人たちが、外にも連れ出してくれた。
「西村知美ちゃんや彼女のマネージャーさんの縁で、懐かしい友人の輪が広がっていって、昔から好きだった女子プロレスラーの方たちとも再会できたんです」
そこからジャンボ堀さんが営む店に顔を出すようになった。
「お店に行くたびに、わんわん泣いていました(笑)。大好きな人たちとつながり直して、少しずつ自分を取り戻したのかな。私の経験が誰かの役に立つんじゃないかと、公表を勧められて。その辺りから急に元気になったんです」
公表によって“伝えること”にやりがいを感じているといい、「もう泣いていません!」と胸を張る。
「前だったら、同じ境遇の人たちに『元気出して』なんて言えないと思っていましたが、今なら言える。私にできることをやっていきたいって意欲がすごくあるんです」