"介護疲れ"から寝たきりの妻を絞殺…わずか3年で出所した父親に息子が「到底許せない」と怒りに震えるワケ
■出所した父の面倒を見ることになった息子
日本で起きている殺人の約半数は家族間で起きている。筆者は、加害者家族支援団体で200件以上の家族間殺人の相談を受けてきた。今回は、超高齢化社会の問題として、近年、焦点が当てられるようになった介護殺人の背景に迫る。
プライバシー保護の観点から登場人物の名前はすべて仮名とし、個人が特定されないようエピソードに若干の修正を加えている。
「母が亡くなったという知らせだけで胸がいっぱいでしたが、父が殺したという事実を突きつけられたときは、どん底に突き落とされた感じでした……」
佐藤正弘(50代)は毎月、母親・和子(当時70代)の墓前で手を合わせている。和子は、夫の忠雄(80代)にロープで首を絞められ殺害された。事件当時、和子は癌を患っておりほぼ寝たきり状態で、認知症の症状も出ていたという。忠雄は動機について、介護に疲れ、将来を悲観したと供述していた。
「父はかつてここに来たい、花を手向けて欲しいと言っていましたが、私が絶対に許しませんでした。母が許しても、私は絶対、父を許すことはできません」
それでも正弘はしばらく、刑務所を出所し、認知症の症状が現れている忠雄の面倒を見ることになった。
「まあ、世間体ですよ。事件後、長男なのになんで親をちゃんと見てなかったのかって、私が責められましたから……。放っておいたらまた何言われるかわからないから……」
しかし、正弘は介護を担う立場になって、父親の気持ちが少しは理解できるようになったという。
■「一歩間違えば私も殺人犯になりそうだった」
「介護サービスとか耳にしたことはありましたが、まずどこに連絡をすればよいのかわかりませんでした。実は、妹が鬱病で生活保護を受給しているんですよ。妹の方が福祉に詳しくて、妹から手続きなど教えてもらいました」
忠雄は現在、老人ホームで生活しているが、入居ができるまでの約1年間は、正弘の家族が自宅に引き取って面倒を見ていた。
「父は認知症っていうだけじゃなくて、刑務所から出てきてるわけですから……。とにかく近所に迷惑かけないように気を遣っていました」
忠雄の介護のために、正弘の妻は仕事を辞めざるを得なかった。
「妻は、私と父親の関係が良くないことを分かっていますから、私に介護を任せて、今度は私が父を殺すようなことになったら困ると、仕事を辞めて介護を引き受けてくれたんです。確かに、時々、父に対する憎しみの感情が込み上げてくることがあって、一歩間違えば私も殺人犯になってしまうような心境でした」
犯罪者となった家族に対して、正弘のような感情を抱いている家族は決して少ないわけではない。
忠雄は亭主関白で、妻の和子に対する家事の要求も厳しかったという。食事は時間通りでなければ怒り出し、どれほど和子の体調が悪くても自宅で調理した料理でなければ口にしなかったという。無論、忠雄が自分で料理をするようなことは何があっても考えられなかった。
■「お父さんも被害者」のひと言に激昂
刑事裁判で弁護側は、和子が癌を患い、外出ができなくなると、忠雄は慣れない家事を努力してこなしていたと主張した。病気の妻のために買い物に行ったり、少しでも身体にいい食べ物をと近所の店の人に聞いていた忠雄の様子を美談のように語っていたのだ。その発言に、正弘は憤りを感じずにはいられなかった。
「正直、私にとっては違和感がありました。いまどき、家事をやるのは当たり前じゃないですか。それを慣れない中、頑張ってたとか……。料理ぐらい最初から自分でできれば問題なかったはずです。母を殺していい理由にはなりませんよ」
忠雄に下された判決は懲役3年。
「3年って……。人を殺しておいてね、10年位刑務所に入って償うべきじゃないでしょうか」
正弘は判決に不服だっただけではなく、事件報道に対しても大きな違和感を抱いたという。
「介護殺人を取材しているっていう記者から手紙が届いたんですけど、『お父さんも被害者ですよね』と書かれていて……、正直、何も知らないくせに! と腹が立ちました。頭に来たので、私は事件は傲慢な父が招いた結果で、『被害者』といえる部分など一ミリもないと訴えたんですが、記事にはなりませんでした。記事になっていたのはお涙頂戴話ばかりです」
筆者も同様の取材を受けた経験があるが、正弘の感情はよく理解できる。加害者にしたい人物に対しては加害性や異常性を強調する事実ばかり拾うくせに、被害者にしたいと思えば今度は可哀想な話にしか耳を傾けないのだ。実態を伝えるのではなく、「主張ありき」の取材には違和感しかない。そんなに世の中は単純ではないはずだ。
■妻に暴力を振るい、娘を精神的に追い詰めていた
「母の病状が一気に悪化したのは、それまで父が無理をさせていた可能性があります」
正弘は支配的な父親から逃れるため、実家から離れた大学に進学し、就職して家庭を持ってからも冠婚葬祭以外はほとんど実家に帰ることはなかったという。母親とは頻繁ではないが電話で連絡を取っており、異変に気が付いたのは事件から一年程前、必ず電話に出るのは和子だったが、忠雄が電話を取った時だった。正弘が和子のことを尋ねると、忠雄は「風邪を引いて早く寝た。心配はない」と話していた。
「父が家の電話に出るなんて今までなかったので、いやな予感はしていたんです。この時、実家に帰っていればこんなことにならなかったかもしれない……」
正弘は、今でも後悔の念が消えないという。
忠雄は、家事育児は女性の役割だと決めつけ、何があっても手を出さなかったことに加え、家族の問題に他人を介入させることを極端に嫌がった。
正弘の妹は結婚して実家からそう遠くないところで生活していた。ところが、夫から家庭内暴力を受けるようになり、実家に帰りたいと訴えたことがあったが、忠雄は「出戻りなんてみっともない!」と実家に近寄ることさえ許さなかった。
DVに対しても、「お前が融通が利かないから悪い」「我慢が足りない」と被害者に説教する始末。忠雄もDV男で、激昂すると平気で和子に手を上げていた。
「殺されそうになって助けを求めて来た娘を追いかえす親なんです。周りに迷惑を掛けないようにって世間体ばかり気にして、家族を守れないなんて最低ですよ」
正弘の妹は、夫と離婚できたものの、鬱病を患い生活保護で暮らすようになった。生活保護の受給に関し扶養照会が届くと、急に「家族の恥だから」と実家で受け入れると言い出し、正弘が弁護士を立てて忠雄の介入を拒否したのだという。
■人に迷惑を掛けてはいけないという呪縛
私たちは幼い頃から「人に迷惑を掛けてはいけない」という教えを叩きこまれている。当然のことのように思うかもしれないが、迷惑をかける、つまり、人に頼ってはいけないのであれば、高齢者や障がい者、子どもなど支援がなければ生活できないマイノリティは生きていけないことになる。こうした縛りが家族の中に問題を押し込め、社会にどれだけ支援が存在したとしてもそこに繋がる道を塞いでしまっているのである。
重い刑を科すことが事件を防ぐわけではない。しかし、加害者を安易に被害者と見做し「仕方がなかった」ように結論付けて事件を終わらせてしまうことは結局、家族の問題は家族で解決すべきという家族責任論に行きつく。
相談してくれることを待つのではなく、一定の年齢に達した人々には、介護サービスの利用が必要ないかどうか連絡する等、社会から家族に対する積極的なアプローチが求められている。
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阿部 恭子(あべ・きょうこ)
NPO法人World Open Heart理事長
東北大学大学院法学研究科博士課程前期修了(法学修士)。2008年大学院在籍中に、社会的差別と自殺の調査・研究を目的とした任意団体World Open Heartを設立。宮城県仙台市を拠点として、全国で初めて犯罪加害者家族を対象とした各種相談業務や同行支援などの直接的支援と啓発活動を開始、全国の加害者家族からの相談に対応している。著書に『息子が人を殺しました』(幻冬舎新書)、『加害者家族を支援する』(岩波書店)、『家族が誰かを殺しても』(イースト・プレス)、『高学歴難民』(講談社現代新書)がある。
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(NPO法人World Open Heart理事長 阿部 恭子)